SSブログ

1969.5.18〜5,29 [当時の「記録」]

22歳の誕生日を徳山で迎えた。明星ラーメンのアルバイトで、指定されたインスタントラーメンを扱ってる店を一軒一軒歩いて探し当てながら、これから販売計画中の新製品を持って訪問し、新製品の説明をしたり、感想を聞いたりする仕事だった。かなりの田舎の店まで丹念に回った。《中麺 -ちゅんめん-(袋めん。1969年発売。ノンフライ麺の走りでもあり、他社も追随するほどのヒット商品であった)》がその新製品。明星食品の「発売を終了した商品」(ウィキペディア)の中にあった。

《生活そのものでしかないものが、思想のあるいは倫理の装いをもってあらわれる。》《ほんとうの未来は現実の最先端にあるのではない。現実の深部にこそ、その萌芽がかくされている。》

*   *   *   *    *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.17(2) [当時の「記録」]

ここで唐突にゲーテ『ファウスト』が登場した。どういうわけかここだけは横書きで大きな字で記している。
実はこのことに同調するようなシンクロニシティがあった。「メルロー・ポンティの評伝」とのふれこみの広告を見て注文した『メルロ=ポンティ あるいは人間の尺度』が昨日届いたのでパラパラ見ていたら、次の箇所が目に飛び込んだ。《見るものと見えるものとの同一性ーーwäre nichit das Auge sonnenhaft・・・〔もしも目が太陽のようでなかったならば・・・}ーーは、きわめて古い認識論的主題であって、メルロ=ポンティもそれをよく知っていたーー「・・・われわれのあらゆる認識理論、とりわけどうにかこうにか諸科学が担い運んでいる認識理論に混ざりこんでいる、このような見えるものの存在論の断片」(『見えるものとみえないもの』)。》巻末の訳注には《この句にはじまる四行詩が、ゲーテの『色彩論』と晩年の詩集の中に見出される》として次の異文の引用があり、訳がついていた。《Wär nicht das Auge sonnenhaft, die Sonne könnt' es nie erblicken; läg' nicht in uns des Gottes eigne Kraft, wie könnt' uns Göttliches entzücken? (もし眼が太陽のようでなかったなら/どうしてわれわれは光を見ることができようか〔太陽を決して見ることができないだろう}/もしもわれわれのうちに神自身の力が生きて〔存在して}いないなら/どうして神的なものがわれわれを魅することができようか。)》さらに、《この詩そのもののモティーフもプロティノスやプラトンにまで遡りうるものである(ゲーテは「古代の神秘家の言葉」として示唆している)。》としてプロティノスの『エンネアデース』からの一節《眼が太陽のようでなかったら、決して「太陽を見ることはできなかったであろう。そしてまた、魂は美しくなっていなければ、美しいものを見ないであろう。》が紹介されていた
「太陽凝視」が見る側の「神性」に対応しているという意に受け止めた。まさにイスラムの神秘体験、古神道の浄身鎮魂に通ずる。→「太陽凝視」のすすめhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.16〜5.17 [当時の「記録」]

全共闘の側で書かれた「岡大学生運動史」より。《5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。/ この大管法恫喝の中,谷口体制の下,右翼と一体となった民青,秩序派による封鎖解除,スト破壊という反革命闘争圧殺と全共闘との激しい闘いが展開される。/ 5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。/ 一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。》岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17>)

日本共産党は大学に深く根を張っていた。したがってその青年組織である民青は「大学の秩序」の側にあるのは必然。本来相容れないはずの日本共産党と右翼はともに、全共闘からみれば「秩序の側」だった。民青の人たちはわたしの周り多かったが、おしなべて上昇志向の印象が強い。まさに全共闘にとってはターゲットそのものだった。右翼はといえば、あるいは空手のHさん(2級上)がそうだったかもしれない、と思うぐらいで、私の周りにはほとんど全くいなかった、というか私の視野には入ってこない存在だった。今になって思えば「右翼」は真っ当な存在だった。その頃、「生長の家」系をバックにがんばっていたのが、新潟大学の伊藤哲夫氏や大分大学の衛藤晟一氏。伊藤氏から当時の奮闘ぶりを聞いたことがある。いまや共に安倍首相の最側近。二人とも私と同年。

創立50周年記念事業委員会による『岡山大学50年小史』(平成11年 岡山大学)から転載。警官死亡事件を受けた文。事態の深刻さに大学側も学生側も驚愕し、問題の早期解決を目指す動きが一段と強まった。大学側も、学生側と徹底的に話し合い、事態を一挙に解決に持ち込もうとして、四月二十七日全学集会を計画した。大学側としても、学生の主張に出来るだけ耳を傾け、可能な改革は速やかに実行し、不可能なことははっきり不可能だとして学生の理解を求めようとしたのである。/ 全共闘側の紛糾作戦を阻止し、冷静で良識的な話し合いを確保するため、予備討論が重ねられ、会場も全共闘の妨害を警戒して、附属小学校校庭に設けられた。全学の教職員が、集会の成功を目指して、 附属小学校に結集した。/ だが、結果は無惨だった。 怒号するマイク、荒れる全共闘のデモ。騒然たる状況の中で、赤木学長の苦心の呼びかけもかき消されてしまった。なおも語りかけょうとする学長を目掛けて、デモ隊が襲いかかる。学長の訴えは、一〇数分で中止するほかない状況となった。全共闘の妨害によって、大学側と学生側との苦心の学生集会は、混乱のうちに流会となった。五月三日、赤木学長は辞任し、谷口事務取扱がこれに交代する。この時期、 大学倒としては、一方で、 学生の暴力事件については、 告発しつつも、学内の封鎖やストについては、 なおも学生側との話し合いの姿勢を崩さず、 機会を窺っていた。/ 五月十二日頃、 スト解除の動きとそれに反発する全共闘の動きとが、 激しく入り乱れ、全共闘側は、再封鎖の態勢を固めた。この間全共闘側と教職員との間に小競り合いが発生し、教職員の何人かは負傷した。/ それが次の転機となった。大学側は、話し合いによる事態の解決には、かなり悲観的になっていき、次第に対決姿勢を固めていく。それがはっきり現れるのが、二十日の大学による学生の告発でありさらにその方向が明確になるのが、二十八日である。大学側は、警察に対して封鎖解除、バリケード撤去要請を行った。しかし、大学側はここでも、傷害·占拠·封鎮という暴力的な犯罪行為に関してだけ警察力の介入を要請しているのである。/ ストライキ状態は、すでに三か月続いている。新入生は、この年から始まった医学部薬学科を別として、一度も授業を受けていない。ストライキ状態について、大学側は、なお学生多数のスト支持の意思を一応推定して、それに手を着けることはしていないのである。/ 六月になると、十五日には、全共闘と、これを支援する外部の学生や労働者?が、一度撤去された南北道路のパリケードをコンクリートで固め、再封鎖した。十八日県警機動隊が、これを再び排除する。事態の打開に向けて有効な手が打たれることなく、バリケードの争奪合戦が続き、七月は空しく過ぎる。》(180p) 

あれからもう50年、今の大学からは想像もつかないのではないか。今思えば、300万人以上亡くなった敗戦から24年、まだ「戦後」だった。当時の緊張感を思うと、それなりに命がけだった、といえるかもしれない。あらためて、「われら戦中派」と思う。「はぐらめい」のHNはこのとき授かった。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.14〜5.15 [当時の「記録」]

《全共闘の政治運動的部分には未来はない。そこには現実から疎外された理念による政治あるのみ。しかし、そうした理念をよびおこす、いわば社会運動的な部分にこそ未来を先取りする真の理念はふくまれている。》と書いている。その通りと思う。その政治感覚には全くついてゆけなかったが、何か新たな胎動をそこに感じていた。われわれ以上の世代の「政治感覚」に発したのだが、それがわれわれ未満世代の新しい「社会感覚」を呼び覚ました。2級下の「坪井」が思い浮かぶ。羨望の思いをもって坪井を見ていたように思う。夭折したと聞く。
その自覚があったかどうかはともかく、全共闘が提起していた「新しい社会感覚」について、50年経った現時点から評価する本に昨年出会った。井上智洋著『純粋機械化経済』だ。当時の学生たちは、「~すべし」と命令する父権的な強迫観念から解き放たれたかったのではないだろうか。68年革命は・・・最終的には・・・脱労働社会を到来させるAI(人工知能)とBI(ベーシックインカム)による革命のリハーサル》と書く。父権的な強迫観念から解放」とは要するに「根源的思考への志向」であり、それはすなわち「自己感覚を拠りどころとする」ということだった。まさに私にとっての〈自立〉が目指すところだった。世界的に見れば、この動きがあってこそ、マッキントッシュやウィンドウズやアイフォンが生まれ出たという。(『純粋機械化経済』を読む https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26)日本ではどうだったのだろう。
大学存亡の危機にあるこの時期に、林先生の家に栄作さんと泊まってきたことはすっかり忘れていた。栄作さんは2回上で漢文専攻。何かと目をかけていただいた。真庭落合町の家に泊めてもらったこともある。そういえば、結婚式にもよばれて多くの寮生で参列した。高校の先生になられた。生徒に慕われるいい先生だったにちがいない。今も年賀状をいただく。林先生は学生部長を務めておられ、寮生にとってはなじみの先生。林先生相手に団交をやったこともある。中国文学の教授で『十八史略』の第一人者であられたようだ。林先生なりになんとか打開の方途を探っておられたのかもしれない、と今思った。私では役に立たなかった。
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.11〜5.13 [当時の「記録」]

毎週土曜日の午後から月曜日の朝まで、一日何回か決まった時間に校内を巡視するだけの当直アルバイトを始めた。家庭教師先のお母さんが務める聾学校の仕事だった。寄宿舎があるので、食事の時間にはそこから女子中学生が食事を運んでくれる。聾学校なので黙々とことは運ぶ。ずっとテレビとは無縁な暮らしだったが、ここにきてテレビとも親しくなった。卒論をコピーさせてもらった記憶があるので、3年近く勤めたことになる。さほど気を使うこともなくほんわかと穏やかなバイトだった。家庭教師先が学校のすぐ前、お父さんは全盲の鍼灸士で盲学校の先生だった。蒸気機関車の機関士だったが、戦後間もない頃メチルアルコール中毒で全盲になられた。歌をよくせられ歌集をいただいたこともあるが、ご自分の生涯を振り返られた著『白杖』を出されたのが平成13年のことだった。森御夫妻からはあとあとまで気にかけていただいた。お世話になりっぱなしだ。御著書の「はじめに」を転載させていただいてご家族を偲びたい。

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.4.29〜5.10 [当時の「記録」]

この間10日以上に亘る。

女子寮の懐しい石倉さんの名が出た。合同委員会仲間でごく親しい同級生。その石倉さん、警官死亡事件関連で、岡山の街中、公衆の面前で逮捕され、新聞にデカデカとそのときの写真も出た。全くの誤認逮捕だったのだが、気持に一本筋金が入ってる石倉さん、なぜか黙秘権でがんばった。私が会ったのは何日か拘留されてようやく解放されたときのことだったのだろう。きっとそのころ、われわれの間では「時の人」になっていた。

現実の前での徒労。現実に直面して、それに抵抗しえない自分を見出した時、すべて徒労。》現実の前ではあっけなく雲散霧消してしまうようなことにいつまでも絡め取られてジタバタする、それはそれでくぐり抜けねばならない一時期だったのだろう。ここでも橋本さんに助けられた。私がどんな状態でいるのか、見透かしてのハガキだったのかもしれない。童話を書きたい》などと思ったのは、橋本さんのせいにちがいない。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1971.5.5 高橋和巳の死 [当時の「記録」]

高橋和巳死亡記事.jpg

高橋和巳の死亡記事が挟まった2年後に跳ぶ。

『わが解体』のアマゾンレビュー★★1969年をピークとする大学紛争当時、作家であり京大で教鞭をとる立場にあった高橋が綴った自己反省の書とでもいうべきか。/とにかく高橋はまじめで誠実で良心的で、おまけに頭がいいから、目の前の混乱した状況を何とか順次立てて論理立てて懸命に説明しようとするのだが、読み手を納得させるだけの理屈が見つからない。その歯がゆさを誰よりも痛感しているのは高橋本人であるが、それでも必死に理屈を見つけ出し説明しようとする姿がますます痛々しく感じられる。/「内ゲバの論理はこえられるか」がその典型で、所詮やくざの出入りと同程度の内ゲバや集団リンチを、革命運動の中に普遍的摂理として位置づけようとするから行き詰まるのは目に見えている。最後の最後で高橋は「大衆的規模での意識革命」とか「人間関係変革」を持ち出さざるを得なくなっている。残念だが、総括になっていないし、第一青臭い。》ナイアル)マトを得た評と読んだ。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

1969.4.28 [当時の「記録」]

昨日「移ろうままに2」に、この「移ろうままに3」のことを書いた。そのせいで、おとといの47アクセスが、昨日は252アクセスになっている。カミングアウトで「人生全開」、そんな気分になった。もう人生そう長くはない、もったいぶってもしょうがない。
さてこのあたり、いろんな本を読みかじっている感じだが、どういう経緯か江藤淳の『作家は行動する』に行きあたった。《江藤はまさに4/25以前のおれを負の行動の論理として説明している!!》として二文をひき出している。
”「もの」たちの奥深くに埋没し、「自然」の中にわけ入ろうとする。そこへ「死」が出現したとき、たぶん悟達が達成される。”
”真の文体は現実に対する謙虚さ、ないしは他者に対するはたらきかけの意志によってしか生まれないのである。”
後者にはわざわざ右側に波線を引いている。自分だけで完結させようとしてジタバタする世界から脱け出て〈関係性〉に目覚めた、ということか。「大人になった」のだ。
この本のレビューに《「良い作家」とは…/作品を「見せる」のではなく、「おいでよ!」と作品の中に読者を「参加」させる作家であり、志賀直哉のようにリアリズムを履き違えず(?)、自然を見たら自身の言葉でそこに「ある」ものを描写し(自分の目に映ったものが真実なので、状態をまったくそのまま写実する必要はない)自然へ返すこと、そしてフィクションの「だまし」「うそ」「しかけ」を越えて、その先に真実を書き記すことの出来る者…。ミシマも、大江も、そして大岡さえもこれには完全にあてはまらない。/氏はとにかく、まっとうなことをまっとうなままに言っている/書いているに過ぎなく、そのまっとうすら満足に行えない作家がどれほど幅をきかせているか、ということなんである… 》(めそ ★2016.7.24)この感覚からすれば、三島(あるいは太宰も)は「拵えごとの世界」にすぎないということか。よくわかる気がする。
ともあれ、私はめでたく高橋和巳的世界から完全脱出を果したようだ。
その高橋和巳、この頃すでに病に侵されていたのだろう。自身、高橋和巳的感覚のまま「わが解体」を書き、京大助教授の職を辞し、2年後、1971.5.3没。誠実な人生を終えた。夫人の高橋たか子、その作品を追ったことはないが、高橋和巳の人生を引き受けつつ独自な世界を切り開いておられたようで、去年だったか山形新聞文芸欄でそのことを知って、以来気になっている。カトリックに入信、修道生活を送られたこともあるという。
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.4.26〜4.27 [当時の「記録」]

《高橋(和巳)、吉本のあとにつづくわれわれの世代のなしうることは、彼らの認識の上に立って、いかに創造するか、を追求してゆくことだ!!》《現代にあっては認識に「とどまる限り」死骸でしかありえない。勿論、認識のない創造が空虚であることはいうまでもない。》

「認識」の次元から「創造」次元への脱皮、あるいは飛躍。その意気やよし。これからどんな展開があるのか、私にもわからない。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.4.24〜4,26 [当時の「記録」]

なんか、今までは全然考えてもいなかった新たな地平が見出されつつある様な気がしないでもない。/吉本隆明や高橋和巳とは全く違う、しかし、おれにとっては必然であるような地平が。》と書く。胎道をぬけて明るい世界に出てきつつあるのだろうか。その導きになったのが、ジャン。クリストフの叔父ゴットフリートだったのか。すっかり記憶から消えていた。

*  *  *  *  *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。