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1969.7.22〜7.29 [当時の「記録」]

なぜ今頃、あらためてノートを開く気になったのか。いま7/29分を写し終えて、コロナ禍のいまと当時が重なった。
この年の1月26日にストが始まって講義もなく無為のうちに半年が過ぎている。みんないったい何をしていたのか。ひたすら物憂い夏だった。当時の感覚、コロナの今と似ているとふと思えた。既視感がノートを呼び寄せたのかもしれない。
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1969.7.17〜7.21 [当時の「記録」]

久しぶりにノートを開く。なんと2020.3.9以来、もう2年近く経った。

原田環external-content.duckduckgo.com.jpg原田と何を話したのかは覚えていないが、書き写しつつ原田が目の前に現れてくる。革命家にこそならなかったが、一貫した人生を歩んだと思う。初志を貫徹して朝鮮史学者として名を挙げた。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%92%B0

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三島由紀夫の死から50年 [当時の「記録」]

三島由紀夫 週刊現代.jpg三島由紀夫 山新.jpg山形新聞を開いて三島由紀夫の死から今日で50年になることに気づかされた。

その事件をどう思ったか、何か書いたはずだと思い、当時持ち歩いていたノートを開いた。大学紛争の最中は毎日のようにことこまかに書いていたノート(移ろうままに3)も、嵐が過ぎて2年間留年することになり、ひとまず落ち着いた5回生、ノートに書くことも少なくなっていたが、この事件にはさすが反応していた。事件の第一報は大学からの帰途、だれだったかの家に立ち寄ってそこで聞いたような気がする。自転車で帰る川沿い4キロぐらいの道のり、頭の中がごちゃごちゃになっていた記憶がある。ノートに書いたのは翌朝の新聞(多分、朝日新聞)を見てからのことだった。その後『春の雪』は面白く読んだが、それからも三島に対する距離感は変わらない。昨年の10月にこう書いていた。《昨日、『近衛上奏文と皇道派ー告発 コミンテルンの戦争責任』(山口富永)のコメント欄に、《亀さんブログで取り上げていただきました。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1727.html 三島由紀夫についての諸評価を知ることができました。『英霊の声』は神道天行居と関わります。「生きる事実」と「書かれたもの」の異和を感じていました。昭和天皇も今東光師もそれを三島に感じておられたのではないかと思いました。三島の最期は、その辻褄合わせのような気がしています。》と書きつつ西田幾多郎を思ったのだが、三島由紀夫が「芸人」のように思えてしまった。哲学者と文学者の違いかと思ったが、必ずしもそうではない。若松英輔氏が三島由紀夫に惹かれることはない。井筒俊彦にしても、西田幾多郎にしても、「自己を垂直的に深める」ことが第一義であった。三島はといえば、ひたすら「知識の海」を泳いでいたように見えてしまう。》100分de名著「善の研究 西田幾多郎」(若松英輔)https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-10-20-1
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1969.6.18〜7.14 [当時の「記録」]

バイトに明け暮れていたのだろうか。なにも書くこともない、そんな日々だったのだろう。

《蹉跌は証だ》の詩は高村光太郎の「街上比興」だった。

このころの学内。6月18日午後2時頃,教職員,民青が現われ南北道路バリケード破壊を開始する。まず理学部生を中心とする50名の学友が坐り込み,続いて全共闘の学友も坐り込んで抗議する。3時頃機動隊500が導入され,教職員,民青と共に,坐り込んだ学友に暴行を加えつつバリケード破壊を強行する。4時半頃,「全員逮捕」の恫喝を粉砕して600名の学友が機動隊を県宮グランドまで迫い返した。夕方300名の学友が結集して民青に対する弾劾集会が開かれ,バリケード破壊に奔放し,学友に対する暴行を追求,民青の自己批判を勝ち取った。/ 同日学生寮に私服警官官5人が無断侵入し,寮内を捜索した。これに対し19日,20日延べ16時間にわたる学生部団交が行れ,学生部長自身が西署に対する”抗議文””申し入れ書”を出す事が確約された。相つぐ機動隊導入,日帝の「大学立法」策動によって再び全学の闘うエネルギーは高揚し,一方で右翼民青秩序派のスト解除,「確認書」路線の破綻が明確になっていった。》「岡山大学学生運動史」再掲))ここでいう「学生寮」は女子寮だろう。石倉さん関連だろうか。北津寮に入ったというおぼえはない。

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1969.6.12〜6.13 [当時の「記録」]

記録4.jpgここから新しいノート。吉本の言葉が記されている。

表紙裏《弱者は時代に耐ええずに死ぬ、とうそぶく連中がいるかぎり、わたしたちはみずから死んではならないのだ。 吉本隆明》

INDEX《結局は「そこ」へゆくに決っている。だから僕は「そこ」へゆこうとする必要はないはずだ。「ここ」をいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。 (吉本)》

高橋和巳「わが解体」の『文芸』連載が始まった。心高まらせて読んだ記憶がある。自分にとっての高橋和巳が見える。『わが解体』の、星五つアマゾンレビュー、ぶんちょさんの感想、

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1969.6.11 [当時の「記録」]

昭和43年(1968)10月25日まで共に過ごしたノート「記録 No.3」の最後です。昭和44年(1969)1月21日《昨日の学生大会で、スト権確立との事》からはじまりました。数えたら大学ノート72頁分です。6月11日現在、大学は混乱状態の真只中です。

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1969.6.2(2)〜6.6 [当時の「記録」]

《たかが学生、習い覚えた知識で革命が起こせてたまるかってんだ。》全共闘に向けて投げつけた言葉だった。

このころの大学の状況を『岡山大学 50年小史』はこう記す。五月十二日頃、 スト解除の動きとそれに反発する全共闘の動きとが、激しく入り乱れ、 全共闘側は、再封鎖の態勢を固めた。この間全共闘側と教職員との間に小競り合いが発生し、教職員の何人かは負傷した。/それが次の転機となった。大学側は、 話し合いによる事態の解決には、かなり悲観的になっていき、次第に対決姿勢を固めていく。それがはっきり現れるのが、二十日の大学による学生の告発であり、さらにその方向が明確になるのが、二十八日である。大学側は、警察に対して封鎖解除、バリケード撤去要請を行った。しかし、大学側はここでも、傷害·占拠·封鎖という暴力的な犯罪行為に関してだけ警察力の介入を要請しているのである。/ストライキ状態は、すでに三か月続いている。新入生は、この年から始まった医学部薬学科を別として、一度も授業を受けていない。ストライキ状態について、大学側は、なお学生多数のスト支持の意思を一応推定して、それに手を着けることはしていないのである。/六月になると、 十五日には、全共闘と、これを支援する外部の学生や労働者?が、一度撤去された南北道路のバリケードをコンクリートで固め、再封鎖した。十八日県警機動隊が、これを再び排除する。事態の打開に向けて有効な手が打たれることなく、バリケードの争奪合戦が続き、七月は空しく過ぎる。》(180p)
一方、全共闘側「岡山大学学生運動史」の記述(一部再掲)。
5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。
・・・・・ /5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。/一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。/5月26日,当局の工,教養授業再開策動に対し坂本教官「現段階での正常化拒否」声明を出す。/5月28日午前5時10分,4・12事件,5・12事件の現場検証を口実に機動隊1,200が再び学内に導入され,法文のバリケードを破壊し,封鎖解除を強行,学友を正門からつき出してロックアウトした。午前10時,機動隊が引き上げた後,”退去命令”を無視して学友20名が法文に入ると,教職員が外からカギをかけて,掃除をしていた女子学生2名を含む8名を閉じこめ,さらに機動隊を再導入して,8名を不当逮捕した。正午過ぎから法文前で,学友300名が,教官30名に対し,抗議糾弾集会を開いたが,杉学部長は逃亡し去った。/5月29日好並教官,坂本教官,機動隊導入に抗議して理学部前に坐り込む。/6月10日,自衛隊弾薬輸送車,1年ぶりに南北道路を通過する。これに対し,6月15日,樺美智子追悼集会の後,全共闘が南北道路を再度バリケード封鎖する。/6月18日午後2時頃,教職員,民青が現われ南北道路バリケード破壊を開始する。まず理学部生を中心とする50名の学友が坐り込み,続いて全共闘の学友も坐り込んで抗議する。3時頃機動隊500が導入され,教職員,民青と共に,坐り込んだ学友に暴行を加えつつバリケード破壊を強行する。4時半頃,「全員逮捕」の恫喝を粉砕して600名の学友が機動隊を県宮グランドまで迫い返した。夕方300名の学友が結集して民青に対する弾劾集会が開かれ,バリケード破壊に奔放し,学友に対する暴行を追求,民青の自己批判を勝ち取った。/同日学生寮に私服警官官5人が無断侵入し,寮内を捜索した。(こんなことがあったんだろうか。記憶にない。あるいは石倉さんの件で女子寮かもしれない。)これに対し19日,20日延べ16時間にわたる学生部団交が行れ,学生部長自身が西署に対する”抗議文””申し入れ書”を出す事が確約された。相つぐ機動隊導入,日帝の「大学立法」策動によって再び全学の闘うエネルギーは高揚し,一方で右翼民青秩序派のスト解除,「確認書」路線の破綻が明確になっていった。/6月28日農学部,7月2日工学部で再度ストライキに突入,7月6日には新設の薬学科もストライキに突入し大学立法粉砕に決起した。また6月30日500名,7月12日300名の結集をもって立法粉砕集会,市中デモが貫徹される。》

大学は混乱の極みに達していた頃のことだった。

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1969.5.30〜6.1 [当時の「記録」]

別に詩を作ろうとしたわけではない。ただしばらく経ってみれば《所詮センチメンタリズムの所産でしかない》ということで抹消。がむしゃらのみが生きがいに通じるのであろうこの現在》と言う。「がむしゃら」とは〈対自性〉を振り払ったところの〈即自性〉か。それ自体で完結している状態で「評価」を超えている。これまでしばしば「傲慢」忌避志向がでてきたが、〈対自性〉につきまとう「評価」の感覚がいやでいやでたまらないということなのか。そういったことも含めての「がむしゃら」希求なのだと思う。

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1969.5.18〜5,29 [当時の「記録」]

22歳の誕生日を徳山で迎えた。明星ラーメンのアルバイトで、指定されたインスタントラーメンを扱ってる店を一軒一軒歩いて探し当てながら、これから販売計画中の新製品を持って訪問し、新製品の説明をしたり、感想を聞いたりする仕事だった。かなりの田舎の店まで丹念に回った。《中麺 -ちゅんめん-(袋めん。1969年発売。ノンフライ麺の走りでもあり、他社も追随するほどのヒット商品であった)》がその新製品。明星食品の「発売を終了した商品」(ウィキペディア)の中にあった。

《生活そのものでしかないものが、思想のあるいは倫理の装いをもってあらわれる。》《ほんとうの未来は現実の最先端にあるのではない。現実の深部にこそ、その萌芽がかくされている。》

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1969.5.17(2) [当時の「記録」]

ここで唐突にゲーテ『ファウスト』が登場した。どういうわけかここだけは横書きで大きな字で記している。
実はこのことに同調するようなシンクロニシティがあった。「メルロー・ポンティの評伝」とのふれこみの広告を見て注文した『メルロ=ポンティ あるいは人間の尺度』が昨日届いたのでパラパラ見ていたら、次の箇所が目に飛び込んだ。《見るものと見えるものとの同一性ーーwäre nichit das Auge sonnenhaft・・・〔もしも目が太陽のようでなかったならば・・・}ーーは、きわめて古い認識論的主題であって、メルロ=ポンティもそれをよく知っていたーー「・・・われわれのあらゆる認識理論、とりわけどうにかこうにか諸科学が担い運んでいる認識理論に混ざりこんでいる、このような見えるものの存在論の断片」(『見えるものとみえないもの』)。》巻末の訳注には《この句にはじまる四行詩が、ゲーテの『色彩論』と晩年の詩集の中に見出される》として次の異文の引用があり、訳がついていた。《Wär nicht das Auge sonnenhaft, die Sonne könnt' es nie erblicken; läg' nicht in uns des Gottes eigne Kraft, wie könnt' uns Göttliches entzücken? (もし眼が太陽のようでなかったなら/どうしてわれわれは光を見ることができようか〔太陽を決して見ることができないだろう}/もしもわれわれのうちに神自身の力が生きて〔存在して}いないなら/どうして神的なものがわれわれを魅することができようか。)》さらに、《この詩そのもののモティーフもプロティノスやプラトンにまで遡りうるものである(ゲーテは「古代の神秘家の言葉」として示唆している)。》としてプロティノスの『エンネアデース』からの一節《眼が太陽のようでなかったら、決して「太陽を見ることはできなかったであろう。そしてまた、魂は美しくなっていなければ、美しいものを見ないであろう。》が紹介されていた
「太陽凝視」が見る側の「神性」に対応しているという意に受け止めた。まさにイスラムの神秘体験、古神道の浄身鎮魂に通ずる。→「太陽凝視」のすすめhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
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