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1969.5.17(2) [当時の「記録」]

ここで唐突にゲーテ『ファウスト』が登場した。どういうわけかここだけは横書きで大きな字で記している。
実はこのことに同調するようなシンクロニシティがあった。「メルロー・ポンティの評伝」とのふれこみの広告を見て注文した『メルロ=ポンティ あるいは人間の尺度』が昨日届いたのでパラパラ見ていたら、次の箇所が目に飛び込んだ。《見るものと見えるものとの同一性ーーwäre nichit das Auge sonnenhaft・・・〔もしも目が太陽のようでなかったならば・・・}ーーは、きわめて古い認識論的主題であって、メルロ=ポンティもそれをよく知っていたーー「・・・われわれのあらゆる認識理論、とりわけどうにかこうにか諸科学が担い運んでいる認識理論に混ざりこんでいる、このような見えるものの存在論の断片」(『見えるものとみえないもの』)。》巻末の訳注には《この句にはじまる四行詩が、ゲーテの『色彩論』と晩年の詩集の中に見出される》として次の異文の引用があり、訳がついていた。《Wär nicht das Auge sonnenhaft, die Sonne könnt' es nie erblicken; läg' nicht in uns des Gottes eigne Kraft, wie könnt' uns Göttliches entzücken? (もし眼が太陽のようでなかったなら/どうしてわれわれは光を見ることができようか〔太陽を決して見ることができないだろう}/もしもわれわれのうちに神自身の力が生きて〔存在して}いないなら/どうして神的なものがわれわれを魅することができようか。)》さらに、《この詩そのもののモティーフもプロティノスやプラトンにまで遡りうるものである(ゲーテは「古代の神秘家の言葉」として示唆している)。》としてプロティノスの『エンネアデース』からの一節《眼が太陽のようでなかったら、決して「太陽を見ることはできなかったであろう。そしてまた、魂は美しくなっていなければ、美しいものを見ないであろう。》が紹介されていた
「太陽凝視」が見る側の「神性」に対応しているという意に受け止めた。まさにイスラムの神秘体験、古神道の浄身鎮魂に通ずる。→「太陽凝視」のすすめhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
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5/17 4:55pm

「ファウスト」をよみつつ、
”道化役 できあがった人間は、満足させようがない。できかかっている人間はいつもありがたがります。
詩人 それじゃ、私にもまた返してください。私がまたできかかっていた時代を。もりあがる歌の泉がたえず新たに生まれた時代を。霧が世界を包み、つぼみがまだ奇跡を約束した時代を。谷々を豊かに咲き満たした無数の花を、私が折った時代を。 そのころ私は何も持たなかったが、満ち足りていた。真理を求める念と幻を喜ぶ心で。あのころのままに、あの衝動を、深い、苦痛に満ちた幸福を、憎みの力を、愛の強さを、私の青春を、返してください!”

青春、うめきつつも、絶えざる膨張をよきものと秘かに感じつつある青春。そうしたものに無縁になりつつあるのだろうか。耐える、とは最早、青春の言葉ではない。

”ファウスト きみが自分で感じ、きみの魂から迫り出て、聞く人みんなの心を、根づよい興味で打ちまかすのでなければ、きみの思うところをとげることはできないだろう。・・・・・きみは決して心から心に働きかけることはできないよ。ほんとにきみの心から出たものでなければ。”
”ファウスト ああ、あの出現があまりに巨大だったので、わしはまったく自分を小びとのように感じた。”

知識人、あらゆることをきわめつくしたつもりの知識人、そいつも現実の前では小びとでしかありえない。ざまあみやがれ!! ← おれ自身に対しても。

”ファウスト 神性の似姿であるわしは、すでに永遠の鐘にすっかり近づいたと思いこみ、天上の光輝と明澄のうちに自己をおいて楽しみ、地上の殻を脱ぎ捨てたつもりでいた。わしは、火の剣を持った天使にも増して、自由な力がすでに自然の脈の中を流れ、創造しつつ神々の生活を楽しむのだと、いい気になっていたところ、なんという罰を受けたことだ! 雷鳴のような一言がわしをはね飛ばしてしまった。”

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