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同世代吉野彰氏にとっての大学紛争 [メモ]

ノーベル化学賞吉野彰氏は「1948年1月、吹田市で生まれ」とのことなので同学年。日経の「私の履歴書」に大学紛争当時のことを書いておられたのでメモしておきます。日本史の福井博夫くんが吹田の生まれだった。私も吉野氏と同じく《全共闘運動には共鳴しないが、この運動はいったい何かと関心を寄せ、大きな社会変革が起こりつつあるのかと意味を考える「ノンポリ関心派」》に分類されると思う。吉野氏の述懐大学闘争は日本だけでなく世界の多くの国で起きていた。いまから考えると、70年前後は世界の大きな変わり目の時期だった。私たち団塊の世代は様々な立場で大学闘争を経験したが、社会のこと、日本のこと、世界のことをこの時期ほど真剣に議論したことは後にもなかった。》がよくよくわかる。そしてまた、今その時代がめぐってきたように思えるのだが。全共闘世代に火の気はありやなしや!?

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旭化成名誉フェロー 吉野彰(6)大学紛争

授業中止で仲間と議論 自身は「ノンポリ関心派」

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京都大学の工学部石油化学科で米澤貞次郎教授の研究室に入り、福井謙一教授の授業を受けて化学への思いを新たにしたが、すぐに研究に没頭できたわけではない。1968~69年、京大でも大学闘争の嵐が吹き荒れ、研究や実験がまともにできたのは数カ月だけだった。

京大大学院修了の日に研究室のメンバーと(右から3人目が筆者)

セクトを超えた全共闘運動は東京大学や日本大学から全国の大学に広がっていた。69年1月、東大の安田講堂を占拠していた学生たちが機動隊によって排除されたのと同じ頃、京大でもバリケードが築かれ、学生が多くの建物に立て籠(こも)った。吉田キャンパスの正面にあり大学のシンボルでもある時計台も、学生が占拠して一時封鎖された。

このころ石油化学科は正門から時計台に向かって左側、赤レンガ造りの建物に入っていた。私はキャンパスのすぐ東、歩いて通える左京区浄土寺馬場町に下宿していたが、大学闘争で授業が中止になり、3回生の後半からは大学に通った記憶があまりない。

4回生だった69年秋、学内に機動隊が投入されて封鎖が解かれた。それからしばらくたって、授業がやっと正常化された。

自分なりの分類だが、当時の京大生は3つのタイプに分かれていた。まず政治への関心が強く全共闘運動のイデオロギーに共鳴した「全共闘シンパ派」。同級生の3分の1ほどがこのタイプだった。その正反対のグループが、政治にも党派にもほとんど関心がなく、学生運動もまったくの他人事と考える「ノンポリ無関心派」。京大ではやはり3分の1程度を占めていた。

残り3分の1が、全共闘運動には共鳴しないが、この運動はいったい何かと関心を寄せ、大きな社会変革が起こりつつあるのかと意味を考える「ノンポリ関心派」である。

私自身はというと、3番目のタイプで、やや冷めた目で学生運動を見ていた。大学の自治や学問の自由のために権力と闘うのは意義あることだが、何のための学生闘争なのか。仲間どうしで深夜までよく議論をしたものだ。

私が気になっていたのは「自己否定」という言葉だった。全共闘運動のスローガン的な言葉で、全共闘シンパの人たちが共鳴したのはこの言葉だった。簡単に言うと、「エリートである君たちはいずれ社会に出て特権的な扱いを受け、人民を支配することになる。そういう自分を否定しよう」という意味である。

その主張がどうもピンとこなかった。高度成長期に進学者は増え大学は大衆的になっていた。「俺たちってエリートなの?」。私はそう感じた。エリートたる自己を否定しようと訴え、それに同調している学生たちのほうが、むしろ不思議に思えたのである。

大学闘争は日本だけでなく世界の多くの国で起きていた。いまから考えると、70年前後は世界の大きな変わり目の時期だった。私たち団塊の世代は様々な立場で大学闘争を経験したが、社会のこと、日本のこと、世界のことをこの時期ほど真剣に議論したことは後にもなかった。

大学闘争がやっと落ち着き、卒業研究はなんとか仕上げた。ベンゾトリアゾールという物質が紫外線を吸収する光化学反応を調べる研究である。ベンゾトリアゾールをプラスチックなどに添加すると紫外線による劣化を防ぐ働きがあり、いまでも使われている。これが私の研究者生活の始まりだった。

スマートフォンやパソコンなど私たちの身の回りの様々な機器を動かしているリチウムイオン2次電池。これを開発し2019年のノーベル化学賞に輝いたのが旭化成名誉フェローの吉野彰さんです。手がけた研究テーマがなかなか実らない苦しい時期に運命的に出合った「電気を通す樹脂」。そこから電池開発に乗り出すも、次から次へと難題が持ち上がり――。諦めない精神と柔軟な発想で道を切り開いてきた、希代の企業研究者の物語です。


【追記 10.27】

旭化成名誉フェロー 吉野彰(26)授賞式

「電池が環境革命牽引する」 記念講演での訴えに手応え

吉野彰

2019年12月5日、スウェーデンの首都ストックホルムに到着した。ノーベル賞授賞式に出席するためである。この時期の北欧はさぞかし寒いかと心配だったが、案外暖かい。受賞者の定宿グランドホテルに着くと、玄関前にはすでに大勢の報道陣が待ち受けていた。

記念講演では電池が未来の社会を変えると説いた=共同

心境を尋ねられ「最高です」と答えたが、正直なところ上の空だった。これから始まるノーベルウイークは諸行事がびっしり続く。なかでも8日に予定される記念講演「ノーベルレクチャー」のことで頭がいっぱいだった。

翌6日はさっそくノーベル博物館を訪問した。受賞者は自身の研究にゆかりのある品を寄贈する。私は別便で日本からホテルに送ってあったリチウムイオン電池の試作品を一晩かけて組み立て、博物館に贈った。

館内にはカフェがあり、受賞者は椅子にサインするのが慣例だ。字が下手な私は緊張してペイントマーカーを強く握りすぎ、液が垂れてしまった。ふき取ってもらい再挑戦。「2度サインしたのはドクター・ヨシノが初めてかもしれません」と職員に笑われた。女性職員からマリー・キュリーの実験道具を見せてもらい、賞の伝統を実感した。

そして8日、ノーベルレクチャーの日がやってきた。10月の授賞発表からおよそ2カ月。その間、受賞者が最も心を砕くのは、この講演で何を話すかだ。

歴代の記念講演には自然界の普遍の真理や人間がそれを探求する尊さを説いた格調高いスピーチも多い。講演録を見ると身が引き締まり、ときにひるんだ。

準備をはじめた早い段階で覚悟を決め、自分に言い聞かせた。「私は産業界で研究に携わってきた人間だ。アカデミックな講演にする必要はない。電池が環境革命を牽引(けんいん)し、未来の社会に影響を与えることを伝えればよい」

講演の終盤で8分ほどの動画を見てもらうことにした。30年になると人工知能(AI)を組み込んだ電気自動車(EV)が普及し、社会が一変すると説いた動画だ。

マイカーは消えて皆がクルマをシェアし、行きたい場所を告げればAIが配車して自動運転で運んでくれる。何百万台ものEVが電力網につながり、電池に蓄えた電気を必要に応じてオフィスや家庭に供給する。車の保有コストは劇的に下がり、温暖化防止に貢献すると訴えた。

英語での講演に不安はあったが、手応えはあった。講演中、会場を見渡すと何人もうなずいてくれていた。講演後、若い学生たちから「ふだん温暖化の怖さばかり聞かされるが、解決策があると知り安心した」と感想も聞いた。

10日はアルフレッド・ノーベルの命日に合わせ授賞式と晩さん会。明け方の雪がやんで青空が広がり、銀色に薄化粧した古都の街並みが美しい。レクチャーの緊張から解放され、あとの行事は心から楽しむことができた。

グスタフ国王からメダルを受け取ると、ずっしりと重く、喜びがこみ上げてきた。続く晩さん会で意外だったのは、料理の品数が少なく、皆が会話を楽しんでいたことだ。

その後の舞踏会も驚いた。正装した紳士淑女による社交ダンスを想像していたが、皆が勝手気ままに踊っている。曲もケセラセラ(なるようになる)。格調の中にも気さくさを忘れない、欧州の気風を感じた。


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