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1969.3.23 (1) [当時の「記録」]

嵐の前の静けさ、か。小康状態のこの日だ。

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1969.3.21〜3.22 [当時の「記録」]

《おれの今までの生涯で、今日程苦しい日はなかった。》というその日。想像はつくが、手応えある記憶はない。その前日、同年の森本光明君遭難の報せが届いている。その数日前、体格のいい寮外生とのいつものコンビで大きなリュックを背負って出てゆくのを見送った。寮の南の細道を駅に向かって行ったその後ろ姿の記憶が今もはっきりある。一年間に寮生二人を送ることになった。(前年6月、青戸知巳氏)

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「四季」をめぐって(3) [劇台本「四季」]

前回議論の発言の中に、成本 反対。ニヒリズム礼賛的。フーンと思っただけ。劇としてみてもすーっと入れん感じ。愛がこの劇で問題になっていると思えない。この劇読んで五年か先思う。どうにもならないことが決定的になっている感じ。ものすごく反発感じた。私からしたら悪い例を劇にしたように思える。こういう風にはならないと思う。》があった。きっとこれが当時の大学の「タテマエ」のひとつの極だ。まったく意識することはなかったが、今振り返れば「四季」は知らず知らずそのタテマエへの挑戦だった。それが当時の議論を書き写しつつ見て取れた。成本さんとは橋本さんのところで会ってもいる。橋本さんは成本さんと近い立場に居た。今思えば橋本さんとの対話は、成本さん的感覚へのチャレンジでありアタックであったのかもしれない。私の語ることを頭から否定せずに聞いてもらえることでどんどん深入りしていった。どこまで納得していてくれたのかどうかはわからない、と今なら思える。それでもまっすぐに受け止めてはもらえていた。いい加減ではなかった。

この議論(10/17?)の後、台本をあれこれいじり回したのだが、結局最初に戻ることになったのだった。(10/24)一生懸命になって取り組んだのは、おおむね、共感してくれた人たちだった。

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「四季」をめぐって(2) [劇台本「四季」]

「3年の諸君へ」は議論への呼びかけだった。何人ぐらい集まったのだろうか。たしか新々寮の集会室で車座になって語り合った。その時のメモが残っていた。意味不明もあるがそのまま写す。(は女性)

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「四季」をめぐって(1) [劇台本「四季」]

台本ができた時の「記録」にこうあった。
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1968.9/19 4:45pm
夕べから今までで劇を書きあげた。まだちょっと自分の実感として出てこない。こんなもの書くことができるとはきのう、そして今まで全然思っていなかったんだから。おもしろいほどペンがすすむのだ。まだ森本の評価しかうけていないけど。ちょっと自分乍らまだ信じれん。
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と、興奮した字で書いている。それから間があって、
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10/24 1:35am
劇、おれの一番元の脚本でやることになって、果してやれるかという不安。
今、ガリ切り。ロウを焼いて、ガリ板を冷やしているところ。なかなか冷えない。
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10/26 1:35am
 文化祭まであと一週間。劇の練習、毎日やってるのだが、なんかしまらん。自分で書いた脚本でやるということのてれくささ、というかどういうか。
おれ自身、はっきりした意図もなく、ペンの進むままに書きあげたものだけに、その内容について追求されてくるのが辛い。おれ自身の急所もついてくる。それを言えないことはない筈なのに、何故辛いのか。おれ自身何故人の前に曝すことができないのか。おれ自身の世界としてとっておきたいのか。おれの逃げ場所として。
理解してもらおうとする時、云えばいいのだ。 ああいう劇を書いたことへの後悔。何故書いたんだろう。でも今更いってもはじまらん。
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脚本が落ち着くまでにはいろんな議論があったのだった。その時のメモがあれこれ残っていた。
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「四季」(’68寮祭文化祭三年演劇台本)(6) [劇台本「四季」]

山形へ帰る時か岡山へ来る時か、途中立ち寄った東京の叔母(現在88歳)に連れられて、『幸福(しあわせ)』というフランス映画を見た。今回検索して2017年にNHKで放映なっているのを知った。
▼参考
・映画 『幸福(しあわせ)』予告編 アニエス・ヴァルダhttps://www.youtube.com/watch?v=udyMwY47wt0
・ゾットする不思議な映画『幸福』https://www.youtube.com/watch?v=KrWgVtHAMJ4
この映画の強烈なインパクトが青戸さんの死とあわさって、自分でもあっけないくらいの勢いでこの台本ができた。最後の場面。

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「四季」(’68寮祭文化祭三年演劇台本)(5) [劇台本「四季」]

B4一枚の【別刷】があった。この分、どこまでやったのかおぼえていない。

他愛のない話だが、公道に接して建っていた青桐寮(養護教員養成寮)へのストームが問題になったことがたしかにあった。そういえば近隣の家に謝りにまわったような気もする。齋藤孝氏いうごとく「祝祭の日々」だったといえばいえる。今の学生生活はどうだろうか。

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「四季」(’68寮祭文化祭三年演劇台本)(4) [劇台本「四季」]

六人六様の近況報告がそれぞれおもしろい。よくパターン化されていると思った。これも寮という共同生活を基盤にした共通理解あればこそだったのだと思う。

家内と毎朝声を出して読んでる『声に出して読みたい日本語⑥』、一昨日読んだのが「桂林荘雑詠諸生に示す」(広瀬淡窓)。「道(い)ふことを休(や)めよ 他郷苦辛多しと 同袍友あり 自(おのずか)ら相親しむ 柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し 君は川流を汲め 我は薪(たきぎ)を拾はん 」。その解説《「他国に来たから苦労が多いなどと言うものではない、やがて親友もできるだろう。早朝、外に出れば霜が降りている。君は川の水をくめ、私は薪を拾おう」・・・ 「同袍」というのは綿入れを共有するという意味で、「詩経」 にある言葉。「霜」というのは勉学の厳しさを象徴する言葉。厳しい環境の中でもお互い切磋琢磨して学問をしようじゃないかといっている。学び合う時間は、 人生の祝祭だ。 苦労しながら学び、友達と過ごした時期は、そのときは大変に思えても、後から振り返ると、一番楽しくて充実していたなと思えるようになる。それが青春期の良さだ。全国の有為な若者が充実した青春期を過ごせる場をつくっていたことが、 広瀬淡窓の偉いいところ。 こういう人がいなければ、出会いの場はできない。先生が直接生徒に教えるだけではなく、場の教育力が重要だ。先輩が後輩に伝える伝統、前向きになれる雰囲気が咸宜園にはあった。》私の得た寮生活を思った。私には寮生活あっての大学だった。そしてまたたしかに学び合う時間は、 人生の祝祭(!)だ」。大学の競争率が6倍、寮の競争率も6倍の時代だった。

社会科の先生になった川山の話から当時の大学の歪んだ思想状況が見える。「建国記念の日」の制定が昭和41年(1966)、翌年2月11日から適用された。「日本のナショナリズム」とかの討論集会を哲史クラス主催でやった記憶がある。今の私からすれば、川山が忌避したい《魔法の糸であやつられ・・・”天照皇大神”って書いた掛軸の前でポンポン柏手打って”お国のため”》が、よほど健全な姿である。ただしその先、もちろん、戦争ではない。

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「四季」(’68寮祭文化祭三年演劇台本)(3) [劇台本「四季」]

今朝(1/26)のサンデーモーニングで寺島実郎氏(1947生 私と同年生)が「1968年ごろ、フランスから始まった世界的な動きがあった。自分もその世代だが、全共闘世代ともいわれ、大学を中心にそれまでの権威に対して反抗する動きだった。当時はわからなかったが、その時の動きがその後いろんなあたらしいものを生み出すことになった」というような意味のことを語っていた。昨年、そうした寺島氏と同様な認識を純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落』で知った。(『純粋機械化経済』を読むhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26私たちはなすベきことではなく、したいことをするようになる。仕事をしたいから仕事をする、勉強したいから勉強する、遊びたいから遊ぶ。1968年、当時の学生たちは、「~すべし」と命令する父権的な強迫観念から解き放たれたかったのではないだろうか。》(475p)一男と竹田の議論から、当時のわれわれ学生から見えていた「世の中」をうかがい知ることができるが、それに適応できない洩れたところから新しい時代が開かれることになる。先の記事にこう書いた。

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「1968年革命」の精神は、「創造的破壊」ということで「カリフォルニアン・イデオロギー」へと通じてゆく。一時は「ヒッピー」に象徴される「カリフォルニアン・イデオロギー」の中から、マッキントッシュやウィンドウズやアイフォンが生まれ出る。《「21世紀を発明した人々が、スティーブのように、サンダル履きでマリファナを吸う西海岸のヒッピーだったのは、彼らが世間と違う見方をする人々だからだ。東海岸や英国、ドイツ、日本などのように階級を重んじる社会では、他人と違う見方をするのは難しい。まだ存在しない世界を思い描くには、60年代に生まれた無政府的な考え方が最高だったのだーーーボノ」》(435p)

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それにしても、一男役の二宮と竹田役の森本、長いセリフをよく覚えてくれたもんだと今更ながら思ったが、劇の設定自体われわれの共通感覚そのものだったから、さほどの苦労はなかったのかもしれない。台本だって大まかなあらすじはあったが、書き始めてからはそう頭をひねることもなく、一気に書きあがったものだった。

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1968.6.11〜6.14 [当時の「記録」]

「四季」の第二景を写しつつ、青戸さんの死があったからこの劇があったことに思いが及んだ。「記録」をさかのぼると、青戸さんの死について記してあった。事故は6月2日のことだった。それから台本ができたのが9月19日だった。青戸さんは一級上、法文の経済、いつの頃からか中核派で、いつも大上段からの議論をふっかけてきた。ナイーブな人だった。寮の運営委員会メンバーで、渉外係だったろうか、その前日も遅くまで委員会だった。かなり白熱した委員会だった様な気がする。警報機だけの山陽本線複線の踏切、列車の通過を待って自転車を引いて渡りはじめたところで反対方向から列車が来たのだった。安来の出身、昨年安来の街を通りつつ、青戸さんのことがしきりに思い出された。半世紀前の出来事だったのだ。犬の死のことは、そういえば、という感じ。半ば夢の中の様な記憶だ。

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