SSブログ

1969.3.23 (1) [当時の「記録」]

嵐の前の静けさ、か。小康状態のこの日だ。

*   *   *   *   *

3/23 0:30am
森本に焼香。
思想では信じていなくても、現実の生活の中ではどうしても信じている「ふり」をして行動せねばならないこと。
 (?)
学生のやる葬式には必要以上の感傷、いわば「ねばならない」的な感傷が伴うように感じるのはおれだけか。勿論、おれ自身も含めて。 おれ、正常な社会感覚みたいなもの、どっかへいってしまいそうな感じ。どっかではっきりしておかないととんでもないことになりそう。 焼香して、なにか思ってもいなかった感情がこみあげてきて、それに照れてしまう。 思想とかなんとかいっても、どうしようもない部分があるものらしい。 いいことかわるいことか?

2:10am
『女ひとり・・・』よみつつ、
おれたちがスメドレーに学ぶところがあるとすれば、”精一杯生きる”ということだけだ。つまり、彼女が与えられた環境を精一杯生きた結果がああいう生き方だった、ということで、ああいう生き方の結果だけをみて、われわれがそれを真似ようとしたんではほんとうの自立とはいえない。(くだらん、とはいちがいにいいきれんような気がするけど) スメドレーにとっては、あの生き方はごく自然であったわけだ。

2:35am
”人は恋をすると、容易に奴隷になってしまう。私は奴隷になりたくない。自由は恋愛より崇高だ。少なくとも今日においてはそうだ。多分いつかこの二つのものが、一つになる日が来るだろう。”
現代は、精神のみに限るならば、この二つを共に実現するのは可能なのだ!! と思う。

9:45am
個人幻想・対幻想・共同幻想.jpg個人幻想・対幻想・共同幻想の関係についての仮説。
おれの目指している生き方(↓左側の図の外側弧線でいちばん膨らんでいるところ)

愛のかたち1.jpg
なれあい→考えなくともなんとかやっていける。
     しかし、そのなれあいが崩れた時を考えると
     どうしようもない不安。
     しかしこの不安も日常生活にはのぼってこない。
現代にあっては、「孤独」と「なれあい」はなはだしい二極分裂。
 思想をどこまでも押し通して生きようとすれば、
 死ぬ他はない。
 ーー唯一のつなぎ(生きる救い)としての「愛」!!

   ○     ○     ○

あらゆる傲慢さは、何かを「信ずる」ところから生ずる。
自惚れとは、「自分を」あるものであると信ずるところから生ずる。
傲慢さから逃れようとすれば、何も信じなくなればよい。
じゃあ、何も信ぜずに生きてゆけるかい?

なぜ傲慢さはいやかといえば、信じているものをくつがえされた時の苦しみゆえ。また、それへの不安ゆえ。
それなら、絶対くつがえされないものを信じたらいいじゃあないか。ーーー現実

しかし、おれたちの宿命としての精神のはたらき(想像力)のゆえ、ついつい現実から離れたところに、自分の信ずるものをおきたくなるのだ。
どうしようもない。
傲慢さもおれたちの宿命?

11:50am
けさはどういうわけか久しぶりに落ちついてる。昨日までの気持が不思議なくらい。でもすぐうしろに泥沼が口をあけて待ってる感じ。どうしようもない感情の動揺だ。どれが本物かっていえば、みなほんものなんだろうけど、どこを基準に生きてゆくか、っていえば、いちばん極限のところを基準に生きてゆくことこそが妥協のない生き方っていうんだろう。 極限状態で今の気持を思い出すと”トカトントン”ってことになる。 それにしても、こうした感情の動揺の巾にこそ、現代という外の状況とぶつかるための物差しがあるんじゃあないだろうか、とも思う。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

1969.3.21〜3.221969.3.23 (2) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。