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1969.3.21〜3.22 [当時の「記録」]

《おれの今までの生涯で、今日程苦しい日はなかった。》というその日。想像はつくが、手応えある記憶はない。その前日、同年の森本光明君遭難の報せが届いている。その数日前、体格のいい寮外生とのいつものコンビで大きなリュックを背負って出てゆくのを見送った。寮の南の細道を駅に向かって行ったその後ろ姿の記憶が今もはっきりある。一年間に寮生二人を送ることになった。(前年6月、青戸知巳氏)

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3/21 11:20am
コミュニケーションがうまくゆかないこと。
おそらく、おれ自身の精神構造に原因がある。重層性。相手に対す時、おれのどの部分で対応すればいいのかがわからなくなる。その場その場に応じた反応。一人の相手に対して、おれの様々な部分が反応する。相手はおれを把めなくなってしまってとまどう。ほんとうのおれ、おれにとってのおれ、を知ってもらうためにはこのノートを見てもらう他しょうがないのかもしれない。ここまでせっぱつまってしまってるのだろうか。
傲慢でも何でもない筈だ。これしか今のおれにとって救いがないとしたら。

おれにとってラブレターってものが相手を口説きおとすことでなく、自分自身を理解してもらおうとするものであるとするなら、このノートがラブレターと同じ働きをしてもいいわけだ。

愛はたしかに関係の中にしかありえない。しかし、関係は個人の存在という前提においてはじめて可能なのだ。

要するに、橋本さんにとってのおれは、橋本さんに対しているときのおれの、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、橋本さんに対しているよきのおれだけでは、おれが全く把めんことになってるんじゃあないか。いくらナンセンスに、必然性のないものに、橋本さんに対しているおれがみえるにせよ、すべて、それは、ほんとうのおれ(おれにとってのおれーそれが自己満足という評価を他人から受けるにせよ、おれにとってのおれは、このおれでしかありえない、というおれ)からみれば必然性があり、おれは一箇の明確な個人としているんだということを理解して欲しいということだ。
   ○      ○      ○
3.21図.jpg理解しえないものを愛「する」ことはできない?
 自分の中に位置づけることができない。
  相手に自分自身をすべて含ませる。つまり、相手との関わりにおいて、
  自分んの欠陥のみをみるのではなく、自分と相手を比べて、自分の中に相手にはないものをみる。
そう、互いの自立を目指す限りの人間同士の愛においては、
  一方が愛し一方が愛される、ではなく、
  双方が愛し愛されるという関係。
愛のかたち.jpg
”愛される”ではなく、”愛する”、この両方が双方に成り立つ時、完全な愛?
(理解してないものに愛「される」ことはできる。
勿論、個人としてきたときには、お互い理解し得ない部分はある。

おれはおれを理解してもらうために、君の、あらゆるおれに対する疑問に答える覚悟がある。(?)
     ○      ○      ○
おそらく今のおれは”完全なる愛”を求めているのだ。”現実の危機ということは決してそのまま精神の危機ではない!”という吉本の言葉をしっかり握りしめて。そして、この”完全なる愛”が可能かどうかに、おれ(おれにとってのおれ)の魂が、これから生きてゆくことが可能かどうか、ということもかかっている。すなわち、我々が欲するところに未来があるとするならば、その未来の先取りが、せめて精神的にだけでも可能かどうか、というとんでもない、しかし、案外なんでもないのかもしれぬ問題を背負って、あるいは背負わされて、おれは今、歩いているのだ。

4:15pm
森本(光)が、大山で、雪崩で死亡とのこと。

またひとり、という感じ。森本が死んだがゆえに、おれの中に生きた姿として浮かびあがってくる。
死って、なんか透明な感じ。美とでもいうような集約点に向かって一挙に進んでゆく。というより、他人によって進められる。
なぜ、生きている人は、死者を美化するのか?

彼の死と共に彼の死を中心に波紋を描く。そして、彼の死が忘れられると共に、その波紋も消えてゆく。あたりまえのことだ。

6:25pm
また自分で自分がわからなくなってる。生きてゆけるか、という疑問。”何よりも生きてみること”には違いない。所詮、終日机に向かい、”ああ”というため息をもらすことに存在意義を見出している青二才。

6:55pm
精神上の悩み、苦しみなんてのは逃れようと思えば、いつでも逃れられるのかもしれぬ。じゃあ、何が悩ませたり、苦しませたりさせるのか。

3/22 10:05am
『女ひとり・・・』より
”君の行為の基礎に確信を持ち給え。僕に対する愛情に支配されてはいけない。僕はちょうど風のようなものだから。”

3:30pm
この苦しみというものが伝わらんということのどうしようもないいらだたしさ。

それにしても、こういうことをいいながらも、結構生きつづけてゆく、人間の不可解さ。なんだかんだいいながらも、結構生きていやがる、か。そして、この苦しみが生きるってことの苦しみなんかもしれぬ。

現実(肉体)の苦しみと精神の苦しみのちがい。現実の苦しみってのは、それを解決するためには現実のカベに体当たりするか、あるいは、未来へ救いを求める。精神の苦しみってのは、現実を正しく認識することによって救われることもありうるんじゃあないだろうか。としたら、おれは今どうすればいいのか、といったところでどうしようもない。人間ひとりで存在することができないというどうしようもないこの現実では、この苦しみからは逃れえないものの様だ。 それにしても、畜生メ?

おれの苦しみ、今の苦しみは、悩むとか葛藤とかの苦しみではない。他に気を紛らすことによってしか解決しえない苦しみなのだ!! その意味でも、生きる苦しみ? 人生を捨てることによってのみこの苦しみから救われる。

5:20pm
なる様にしかならんのだ。
それにしても苦しまねばならない宿命なのだろうか。いつのまにかとんでもない所に迷い込んでしまっている感じ。このまま突き進むことになるか、あるいは、へたへたと崩れてしまうことになるか・・・・・

7:45pm
おれの今までの生涯で、今日程苦しい日はなかった。そしてこの苦しみはまだおわっちゃあいない。生きるということがこういうことだとしたら、おれは、キチガイになるかフヌケになるか、それとも死ぬか、そしてあるいは、救われるか。  狂いそうだ。 (まあここにこう書けるだけ余裕があるわけで、その分だけ狂うまで間がある)

8:40pm
なぜ”なるようになる”でわりきってしまえないものか!?

要するに、おれ自身の気持にはものすごい巾があるってことだ。それがひょっとしたことで、ものすごい動揺をくりかえす。どうしようもない。この巾をどう処理するかは「思想と生活」という意味で、おれにとってかなり重要なことのように思える。

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