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「四季」をめぐって(3) [劇台本「四季」]

前回議論の発言の中に、成本 反対。ニヒリズム礼賛的。フーンと思っただけ。劇としてみてもすーっと入れん感じ。愛がこの劇で問題になっていると思えない。この劇読んで五年か先思う。どうにもならないことが決定的になっている感じ。ものすごく反発感じた。私からしたら悪い例を劇にしたように思える。こういう風にはならないと思う。》があった。きっとこれが当時の大学の「タテマエ」のひとつの極だ。まったく意識することはなかったが、今振り返れば「四季」は知らず知らずそのタテマエへの挑戦だった。それが当時の議論を書き写しつつ見て取れた。成本さんとは橋本さんのところで会ってもいる。橋本さんは成本さんと近い立場に居た。今思えば橋本さんとの対話は、成本さん的感覚へのチャレンジでありアタックであったのかもしれない。私の語ることを頭から否定せずに聞いてもらえることでどんどん深入りしていった。どこまで納得していてくれたのかどうかはわからない、と今なら思える。それでもまっすぐに受け止めてはもらえていた。いい加減ではなかった。

この議論(10/17?)の後、台本をあれこれいじり回したのだが、結局最初に戻ることになったのだった。(10/24)一生懸命になって取り組んだのは、おおむね、共感してくれた人たちだった。

*   *   *   *   *


1968.11/2 6:25am
劇、遂に終わる。
どうなることかと思ったんだが、意外な成功。結局、二宮なんかが本番で本気になって。おれがいちばんあがってしまったので、終わっても変な気持。まだ、あまり現実的な事に考えられぬ。
それにしても、よく恥ずかしげもなくあんな脚本でやれたと、今になって思う様になった。劇になっていない。ありったけ観念的。自分の頭の中だけで考え出したことを現実にあてはめることの難しさ、あらためて痛感。

でも、まだ、はっきりした、まとまった気持でない。ただ、何かがすーっと心の中を通りすぎていった様な気持。自分なりに総括してみねばならないのだろうか。今日はもう眠い。夕べもあまり寝なかったけど、よく持つもんだ。

2:05pm
今朝起きて(といっても12時半。夕べ寝たのが6時すぎだから)劇が終わったんだ、という気持。でも淋しい様な気持が強い。これからやらねばならないことがたくさん、というより、兎に角、勉強せねばならないんだ。
それにしても終わった。ある程度の成果を得て。おれは出だしでとちってしまったけど。
この劇やっておれは何を得たのか。単におれ自身の中から出てきた現実に舞台で表現する、単なるその成果を「試す」ための二週間だったのだろうか。苦しいとはいえまい。むしろ楽しかったんではなかろうか。
それだけに、おれは何を得たのか。わからぬ。おそらく、おれたち劇をやった連中の連帯の意識も離れ離れになれば次第に薄れてゆくものだ。感情の持続か。昨夜終わって、みんなでうどん食べて、その後女子の四人を並べて、じっと顔をみてみる。男女間の何か、というものとは全然異なる、いや、これが現実の男女間の何か、というものかもしれぬが、要するに、自分が上になって下をみおろす、何かしら、「いとおしさ」というものを感じる。女に対するいとおしさ、か。
おれ自身の感情の持続性の問題。理性が感情に、おまえはここでも持続すべきなのだ、と教える。そこで感情は、理性に従って無理に動こうとする。しかし、それは所詮無理なことなのだ。
何かを求めつづける。絶えざる発展。あらゆる過去は、現在にとって、まさに過程の一つにすぎない。それ故、現在にとって意味をなさぬ過去は一切ふりおとされる。現在にとって妨げとなる過去のある感情は、一切ふりおとされてしまう。しかし、われわれは他人の感情をおしはかることで、内部に葛藤を持つ。すなわち、自分にはその感情が失われているにも拘らず、相手がその対象であるおれにある感情を持つとしたら、おれはそれを無視することはできない。そこで、理性による感情への命令となるのだ。
何故、他人の感情をおれは無視することができないのだろうか。
しかし、これを追求することで、抽象的なところまでのめりこみ、そこからの上向が難しいとすると、とんでもない泥沼に入り込むと同様、という気がせぬでもない。
自分の”感情”について考える際、それを理性的に解剖する前に、そうした感情によって今の自分が「ある」ということを、はっきりみとめて考え始めねばならぬ。それを怠って、いたずらに抽象的なところにのめり込むと、結局、現にある自分自身を否定する、ということになってしまう。偽りの思想こそナンセンス。
理念としての思想? そうか、おれにはこれが欠けているのかもしれぬ。しかし、おれの考える様な現実としての、自分の行動そのもの、としての思想(思想とはいえぬか)も必要なのだ。勿論、その両方が必要ではあろう。でも、理念としての思想の前に、現実の自分があらねばならないし、それをごっちゃにしてしまってはならない。
おれは理念としての思想は持たぬ。その代用となるものとしての、中から湧いてくるものなのだ。しかし、持たぬことは、ずるい。ここにとどまる限り、ずるい。それだけに、安心なやり方だ。しかし、ずるい。理念としての思想を持った人に、忠告すること、つまり、自分自身をみた上で、という事はできても、対等の関係において議論する事はできないのではないだろうか。

ある人は、他人との関係において、どんどん拡大の方向をとる。つまり、一度関係を持った他人と再び会うと、以前の関係を基礎に新たな発展を遂げる人だ。しかし、おれは、そうした気持の持続性を持たぬ。すでに、一度離れた人に対しては、次に会っても、ある恐れを抱いて接してしまう。
おれにとって、愛とは、感情の持続性か。

11/3 3:10am
園遊会、楽しかった。学生であることの幸せか。いい寮祭だ、今年は。

11/4 1:45am
雑然とした部屋。寮祭終わる。この度の寮祭は楽しかった。
おれたちの劇、最優秀賞もらった。やっぱり嬉しい。
おれたちの意図がどれだけ理解されたかってことは疑問だけど、とにかく、何らかの形で、われわれのやったことがみとめられるってことは、うれしいことだ。
こんどのコンパが楽しみだ。
今日はマラソンもやったし。ファイアーストームは、あまり気分に乗ることはできなかった。コンパも。
少し酒が入ってる。
でもとにかく、いい寮祭だった。

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