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1968.6.11〜6.14 [当時の「記録」]

「四季」の第二景を写しつつ、青戸さんの死があったからこの劇があったことに思いが及んだ。「記録」をさかのぼると、青戸さんの死について記してあった。事故は6月2日のことだった。それから台本ができたのが9月19日だった。青戸さんは一級上、法文の経済、いつの頃からか中核派で、いつも大上段からの議論をふっかけてきた。ナイーブな人だった。寮の運営委員会メンバーで、渉外係だったろうか、その前日も遅くまで委員会だった。かなり白熱した委員会だった様な気がする。警報機だけの山陽本線複線の踏切、列車の通過を待って自転車を引いて渡りはじめたところで反対方向から列車が来たのだった。安来の出身、昨年安来の街を通りつつ、青戸さんのことがしきりに思い出された。半世紀前の出来事だったのだ。犬の死のことは、そういえば、という感じ。半ば夢の中の様な記憶だ。

*   *   *   *   *

6/11 1:15am
とに角委員会の任期は終わった。あまりすっきりした気持ではない。
炊婦公務員化の問題も残っているし、 そして何よりも青戸さんのことが・・・。
青戸さんの死。6/2 日曜日。
身近かな人の死、というものに初めて接した。あまりにも突然。その日は朝から風邪気味でパジャマのままゴロゴロしていた。四時すぎであろうか。”運営委員は至急集まれ”のインターホン。夢うつつに聞いていたがそのまま寝ていた。しばらくして、”青戸さんのゼミの先生知っておられる方・・・”という。青戸さんつかまったか、と思ってすぐ着がえて出てみると、新寮のところに福本が居た。
”どうしたのか”と聞くと、”青戸さんが死んだ”   わからなかった。 とにかくわからなかった。
その日は、夜、ものすごい雷雨だった。夜、九時すぎに、食堂のおばさんに知らせに行ったが、かみなりが恐ろしかった。 通夜を旧寮集会室でした。徹夜。次の日、寮葬。血走りまなこで司会した。淡路先生の弔辞に涙が出た。 寮の四年生の弔辞、今の四年生の形式主義ここに極まる、というところ。腹が立った。
青戸さんは無に帰したのだ、と思った。要するに、残された問題は青戸氏の死によって、おれの中にもたらした不在感だ。 死とは無になることである。
 もっと落ちついた時、ゆっくり書こう。
とにかく、委員会はおわった。

6/14 0:45am
(略)
青戸氏の死、という事は「青戸氏が在らなくなった」という事、ただそれだけなのだろうか。

死とは、生きている人々にとって、ある他人の消滅、それだけなのだろうか。 青戸氏、あれだけおれの中に位置を占めていた人、その死が、おれにとって単なるその人の消滅それだけにしか感じ得ない。他人とはそれだけのものにしかすぎないのだろうか。 死に対する冷酷さ。
おれにとって、ある身近かな人の死が何でもなかった様に、おれ自身の死も他の人にとって何でもない。
おれは、青戸氏に何もおれ自身というものを与えていなかった。意識的には。
おれの分身たるべきものが何ら青戸氏にはなかった。青戸氏の分身はおれの中にいたかもしれない。恐らくいたに違いない。しかし、それは俺の本質にとって何ら意味のないものだった。
おれの本質、おそらくそれは、愚劣なものだ。 そうも思える。

青戸氏の死、と、目撃した同じ踏切での犬の死。
それにどれだけの違いがあるか。
飼主をふりかえりふりかえりして踏切りを渡り、鎖が石にひっかかって死んでいった犬、とその飼主である爺さん。爺さんは、われわれの前で、青戸氏の霊に参るわれわれへの敬意であろうか、たかが犬が、という風にふるまってくれた。 しかし、爺さんにとって犬の死であれ、それは大きな、とてつもない出来事であったに違いない。

青戸氏は、おれにとって何だったのか。
愛、すなわち、他への没入。 愛する事のできない者にとって、他人の死はなんでもないことだ。涙も悲しみも、それは、慣習的なものにすぎない。 偽善、といいうるかどうかは別として。

青戸氏は無に帰した。犬もやはり無に帰した。 両者は共に無に帰した。

要するに、二つの違いは、死そのものから来るのではなく、青戸氏と犬がそれぞれ有として存在している時に、有としての存在の間に、どれだけの位置を占めていたか、ということである。
そして、人間の場合には、同情、つまり、他の感情を自分の感情に移しかえることができる故に、より、占める位置は広くなろう。

死、 冷酷。
    青戸氏は死んだ。

(略)

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