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私にとっての大学(2)「学問の自由」観 [メモ]

久しぶりにここに来た。「移ろうままに 2」に〈真っ当な野党へ、 新・国民民主党(日本学術会議騒動)〉https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-07-2 の記事を書いたところ。騒動の中でしきりに言われる「学問の自由」の言葉に大学入学当時のことがよみがえってきた。ここに来てちょっと前の記事にさかのぼってみたら、7月1日の〈私にとっての大学〉https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-07-01の記事が(つづく)になっていた。ちょうど今書いてきた記事につながるように思えたので転載しておきます。

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「学問の自由」の言葉を聞くと、54年前、何もわからぬまま縁者もいない土地の大学に行って男子寮に入寮し、故郷にいた時とは別世界、なにもかもが新鮮だった頃がよみがえる。「学問の自由」は、私にとって、あの頃を象徴する言葉だったか。そしてそれからいろんなことがあって、あの頃の自分からはなんと隔たってしまったことか。当時は、「最高学府にいる」という自負にも支えられて、大学の教授先生を頂点に、先輩も同輩もみんな偉く見えたものだった。だからこそ、中身もなく語られる「学問の自由」の言葉にもありがたみを感じていたのだろう。しかし、それから3年経って足元でも起きた大学紛争は、大学入学以来培ったそうした幻想からしだいに自由になるプロセスでもあった。そしてそこから、ほんとうの自分なりの歩みが始まった、と今は言える。
【追記 2020.10.23】
漱石の反権威(天見玲).jpg今朝の山形新聞気炎欄、天見玲さんの文章「漱石の反権威」、高校生から大学にかけて基調となっていたような気がする私の中の感覚を思い起こさせてくれました。天見さんは同じ高校の3年先輩です。

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