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1969.7.22〜7.29 [当時の「記録」]

なぜ今頃、あらためてノートを開く気になったのか。いま7/29分を写し終えて、コロナ禍のいまと当時が重なった。
この年の1月26日にストが始まって講義もなく無為のうちに半年が過ぎている。みんないったい何をしていたのか。ひたすら物憂い夏だった。当時の感覚、コロナの今と似ているとふと思えた。既視感がノートを呼び寄せたのかもしれない。
*   *   *   *   *

7/22 11:25pm
吉本”初期ノート”より
”虚無からは何も生むことが出来ない・僕はこれを熟知するためにどんなに長く一所に滞ってゐたか! 僕は再び出発する。それは何かをすることだ。この世で為すに値しない何物もないように、為すに値する何物もない。それで僕は何かを為せばよいのだと考える。”
”結局はそこへゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕は何のすることがあるといふのか。”
”信ずるものひとつなく、愛するものひとつなく、そのうへ動かされる精神の状態がすべて喪はれた時、生きることが出来るのか。生きてゐると言へるのだろうか。 世界は明日もこのように寂しく暗い。”
  君よ、「おまえはそれでも生きているのか!?」などとえらそうに問いつめるのはやめようぜ。
”絶望!孤独!いやそれよりも、現在の理由もなく痛む頭脳。何ひとつ感じられない憂鬱な精神。そのほうがつらい。”
”僕はそう明な傍観者を好まない。”!!
    こうした、おれにつきささるような言葉もある。
”僕は空虚をもってゐる。僕の思考はすべてこの空虚を充たすことに費されてしまったのではあるまいか。あの正号から出発してゆく幸せなひとたち。僕は先ず負号を充してから出発する。意識における劣等性はつねに斯くの如きものだ。”
7/23 1:45pm
「意識における劣等性」へのひらきなおりから。
彼ら、「正号から出発してゆく幸せなひとたち」との自分の比較から、いたずらに全面的自己否定は、おれが「生きる」にとって何ら意味はなさない。生きてゆかねばならない以上、おれ自身が生きてゆかねばならないのだから。
”思考は抽象的なものから現実的なものへ向ふ操作である。
現実的なものから抽象的なものへ向ふのは直覚である。”
7/29 6:25pm
森永のいうところによると、このおれが、新寮でいちばん暇なのだそうだ。内部の空虚さを以って暇であるかどうかの基準とするならば、それはあたっているのかもしれぬ。
己れがこれから如何に生きるか、という問題で現在程身に迫ってあるときはない筈なのに、おれの精神は、それを避けているようなのだ。
おれ自身、単なる生活者になってしまった時、大学でのこれまでの生活は殆んど徒労と化してしまいそうだ。民青の森永、彼のみるおれ。
彼とは生活者の次元でおれはいまつきあっているつもりなのだ。彼はそれを、おれが森永に負けてしまったと誤解(あるいは誤解ではなく、それが事実なのかもしれぬ、といまのおれはいわねばなるまい)して受けとっているのかもしれない。
麻雀に真剣になっている者はたしかに暇ではない。
娯楽はたしかに空虚を埋める一つの手立てには違いない。
暑い日が今日も暮れようとしている。
どこにあっても、そこから逃れたいという感覚。落ち着けるところ。唯一、夢の世界。

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