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「若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります。」(北原 俊史) [メモ]

私より4歳下、昭和26年生れで元NHKスペシャル番組部プロデューサー北原 俊史氏の文章メモっておきます。大学紛争論として、当時の空気がそのまま伝わってきます。明治維新とのアナロジーも初めて考えました。明治維新もよく似た構造を持っていましたが、様々な僥倖が重なり、最終的には若者たちが政治権力を握りました。》
おまけについていた高校時代の小説仕立てのエピソード、読ませられました。若い人と議論などした覚えはありませんが、若い世代には敵わない、なんとなくそう感じていました。われわれがようよう辿り着いたところがあたりまえのようになっている、そんな感じでした。ただ、「ようよう辿り着くプロセス」がその人にとっては、だれにもわかってもらえないし、わかってもらいたいとも思わないその人のほんとうの「固有性」なのだと思います。私が自分の日記を掘り起こしてここに書いているのは、言って見れば、ようよう辿り着いた後のことです。だから書けるのです。→「<追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-21 
北原氏の言葉「若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります。」を表題にしました。参政党に期待しているのですが・・・
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信じられないかもしれませんが、高度成長期まで日本の大学生はエリートでした。親たちは身を粉にして働いて金を貯めて、「子供を大学に行かせる」そう言う身分に成り上がることを一つの目標としていました。学生たちも、それが分かっていましたから「国の未来を自分たちが支える」という自負心を持って行動しようとしていました。

※数値が75年をピークにいったん下がり始めるのは学生運動の負の影響

こういう学生の社会改良運動が大きな政治事件に発展すると言うのは低開発国では一般的なことで、経済発展の通過儀礼のようなものです。韓国でも中国でも、東南アジア諸国でも、それこそ全世界で普遍的に行われています。

大抵は、体制側に厳しく弾圧されて、地下に潜り、閉塞感から仲間割れを起こし、本当に戦うべき相手を忘れて、身内同士で凄惨な殺し合いに至ったりします。

明治維新もよく似た構造を持っていましたが、様々な僥倖が重なり、最終的には若者たちが政治権力を握りました

70年代の学生運動について言うと、我が国の若者たちが国家や社会の将来を憂いて本気で改革を志した維新から脈々と受け継がれてきた伝統が発揮される最後の世代だったのではないかと思っています。

前述したように貧乏家庭で育った学生も多かったので、「一生懸命働いている貧乏人が一向に報われない社会体制はおかしい」と言うのが基本でした。<大企業が垂れ流す廃液で漁民が犠牲になった水俣病>や<経済発展に必要な大空港を建設するからと言って農民からムリヤリ土地を取り上げた成田空港問題>などが大きな関心を集め、渦巻きのような運動体となって全国の学生を巻き込んでいったのです。

※香港でもミャンマーでもなく日本です。

学生ですから「『社会がおかしい』と言っているだけでは百姓一揆と変わらん」と言うようなことから「理論武装」の必要が説かれ、マルクス主義が人気を得るようになるのですが、現場感覚としてはちゃんと読んでいる人は皆無でした。たまに真面目に勉強している人がいたりすると、「そんな理屈ばかり言っていて、お前は成田や水俣で何をしてきた」と逆ネジを食わされて立往生をしていました。「理論より実践」という空気はかなりありました。

日大全共闘の秋田明大さんなんかに絶大な人気が集まったのは彼が実践の人だったからです。

この辺の思考パターンは幕末の攘夷論の推移とかなりパラレルです。

つまり、「実践的革命理論」と言うのは必然的に「テロリズム」に行きついてしまうからです。

そういう意味で重信房子の属した共産主義者同盟赤軍派は尊王攘夷の実践を説いた水戸学を信奉する浪士たちと轍を一つにしているように見えます。さしずめ彼女の率いた日本赤軍は土佐勤皇党、永田洋子の連合赤軍は水戸天狗党と言ったところでしょうか。

水戸学の本場水戸藩は度重なる凄惨な内部抗争で多くの有為の若者を失い、明治以降は政治的に完全に失速してしまいます。その辺も内ゲバで自滅していった赤軍派とよく似ています。

土佐勤皇党の武市半平太も天狗党の藤田小四郎も関連する多くの書物に書かれている通り「正義の人」で正しいと思っていることをやろうとした、卑怯なことの嫌いな人でした。その小さな正義の積み重ねが最後には殺戮に発展していってしまいます

重信房子なんかも似た構造の、時代の狭間に転落してしまった「正義の人」だったのではないかと想像しています。

5年前か、5年後に生まれていれば、ごく普通の平凡な人生を送ったのではないかと思います。

個人的な記憶では、学生運動をやっている人たちは大体、善良で素朴で良い人たちでした。地方の出身者がとても多かった気がします。私自身は善良でも素朴でもなく、運動そのものには懐疑的だったのですが、彼らの人柄に惹かれて何度かデモにも参加しました。さすがに、ヘルメットを被ったりはしませんでしたが。

ただ、厳しい目を向けると、かなり自己陶酔的な所があり後先を考えていない印象はありました。

今では信じられませんが、70年代は社会全体で学生運動を応援しているようなムードがありました。新聞記者は殆どが学生運動の出身者だったと言うような背景もあります。それが一変するのは、やはり、連合赤軍の凄惨なリンチ殺人事件の全容が明らかになってからです。

世間の空気が学生運動に対して日に日に冷えていきました。先ほどのグラフで大学進学率が75年をピークに下がり始めるのは、それをデータで示す好例だと思います。無理して大学に行かせても碌なことにならないと地方の親が思い始めたからでしょう。

あれから半世紀が過ぎて、大学進学率は再び上昇していますが、最早、大学生にエリート意識は皆無です。エリート意識は自尊心・自制心と裏腹の関係にあります。それが無いから、若手の官僚が平気で公金をくすねたりすると言う、昔なら考えられないような事件が起こるのです。

日本は世界でも珍しい、学生運動がほとんど無い国になっています。若者が声を上げないので、貧富の格差のしわ寄せは、若い世代に集中しています。今や若年労働者の3割近くが発言力の弱い非正規労働者です。私の目には重信房子や永田洋子の事件を利用して大人のコントロールしやすい社会をマンマと構築してしまったように見えます。

若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります

我が国の現状は、その声がとてもか細い。果たしてこの国はどうなってしまうのだろうと、若くて美しい革命家だった重信房子を知っている世代の者としては、時代のあまりに激しい変化、若者が熱くなろうともしない現状が、とても心配に思えてしまうのです。

※若き日の重信房子

若き重信房子.jpg

<追記>

私は重信房子たちより少し下の世代です。しかし、かなり背伸びをして学生運動の周辺をうろついていました。当時の私については以下の回答に記しました。

あります。

50年も前の話です。でも、心の傷が癒えていないのか、筆が進みません。

恐縮ですが、小説仕立てにさせてください。まともには書けないので。

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女が近づいてきたことにボクは気が付かなかった。

それぐらい議論に集中していた。というより、4人の大学生に取り囲まれ吊し上げられている状況から抜け出す手段を必死で探していた。

自分で言うのもなんだがボクは小生意気な小僧だった。誰にでも議論を吹っ掛け、傷つけ傷つけられ、年上のインテリ連中を論破しては悦に入っていた。

その日は吉本隆明の「共同幻想論」について某大学のJazz研の部長の読み方が間違っていると思い、遠慮なくその欠陥を暴き立てた。普段温厚な部長も、その日は虫の居所が悪かったのか、或いは高校生に急所を直撃されて頭に血が上ったのか、色をなして怒り始め、真正面からの議論を避け、僕の人格攻撃を始めた。それを卑怯なやり方だと思ったボクは、よせばいいのに激しく反撃した。そして、目の前にあったウィスキーを飲みながら、偉そうに喋りまくった。ウィスキーを飲むのは初めてだったが、のどが渇くから、どんどん飲んだ。恰好を付けたかったのだ。そんな僕の態度を見て、他の大学生も不快に思ったらしくボクへの容赦ない非難を開始した。

彼女が現れたのは、そんな非難の大合唱の最中だ。

突然、大学生が静かになったので、不審に思って見上げると、ボクの後ろに彼女が立っていた。そして、テーブルの上の花瓶から深紅のバラを一本抜きとると、パクっと食べた。「パクッ」ッという音が本当に聞こえてきた。モグモグと2、3回、ソシャクした後「甘いわね」と言った。

ボクたちは新宿裏通りの地下にあるJazz喫茶にいた。Jazzを看板にしてはいたが、その頃はロックを中心に聞かせていた。ロック好きには有名な店で、結構名の知られたミュージシャンも来ていた。

そこは彼女の店だった。有名な作家の愛人で業界では有名人なのだと、大学生たちは噂していた。エスニック柄のポンチョのような上着を白いブラウスの上に羽織り、下はジーパン。大きな黒い瞳が印象的な女性だった。赤味がかった長い縮れ髪をバンダナでまとめていた。

彼女は、いつもは、その店のカウンターの奥にいて、接客の時以外はめったに出てこなかった。そこが彼女の司令部で、そこから店全体を支配していた。そして、前線に異常があると出動してきた。今回のように。

「あんたたち、みっともないね」彼女は元バラの花だった緑の茎を振り回しながら言い放った。「こんな、コドモ相手に声張り上げたりして」

「コドモ」だと。カチンときた。

部長が何か言いかけた。彼女は指揮棒を振るコンダクターのようにバラの茎を彼の前に振り下ろし黙らせた。「あんたが一番かっこ悪いね。さっきから聞いてれば、コノコの言っている方が理屈が通ってるよ」

「コノコだと」さらに頭に血が上った。

なめんなよ。「あんたにゃ関係ないんだ!」と怒鳴ろうとして、勢いよく立ち上がる……つもりだった。そのままバランスを崩して引っ繰り返った。

天と地がグルグル回っている。泥酔によるメマイだと、後で知った。酒を飲むと、どうなるのかそんなことも知らなかった。ただひたすら気持ちが悪く、ボクは気を失った。

そう。確かにボクは「コドモ」だった。17歳。1968年のことだ。

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1960年代は真夏のビーチのような時代だった。世界的に。

ベトナム戦争、安保条約、五月革命、カルチェラタン、新宿騒乱…

若者たちは全世界でオトナの「キタナイやり方」に抗議を続けていた。

地球上どこでも若者はデモ、投石、議論を繰り返し、そして戦争よりフリーセックスを、と叫んでいた。

フォークソングの大ファンだったボクはボブ・ディランとジョーン・バエズの反戦活動を知ってから、学生運動に興味を持ち始め、やがて日本の運動についても知るようになった。そして、受験勉強をそっちのけにして岩波の「世界」や「朝日ジャーナル」を読みふけった。要するに頭でっかちの高校生左翼になったのだ。やがて、予備校の夏期講習の帰りに大学のバリケードの中に入り込んだことをきっかけに、神田周辺の大学に行っては年上の学生たちと議論することを、何よりの楽しみとするようになってしまった。特に、ある大学のジャズ研のメンバーとは気が合い、高校生の分際で、彼らの仲間のような気分になっていた。

その日も、そんなふうにして彼らが溜まり場にしていた新宿の裏町地下のジャズ・ロック喫茶に時化込んでいたのだった。

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意識が戻った時、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。体を動かそうとすると、猛烈な頭痛がした。ようやく、あの店の奥のソファー席に寝かされていることに気づいた。店内は灯りが落とされていて、閉店したのだと分かった。カウンターに明かりがついていて、その奥に彼女がいた。起き上がって何か言わなくちゃいけないとは思ったが、何を言えばいいのだろう。何か大人っぽい言い方を、と必死で探していると、カウンターに誰か座っていることに気づいた。坊主頭の男だ。黒い半そでのシャツから二の腕に入れ墨をしているのが見えた。カウンターの上に茶色の紙包みが置いてある。彼女はレジから何枚かの万円札を取り出し、男に渡した。男はそれを受け取ると、ちらっとこちらを見てから出て行った。

見てはいけないものを見た気がして慌てて目を閉じた。

しばらくじっとしていると彼女が近づいてきて「看板だヨ。起きとくれ」と言った。

急いで飛び起きた。

その様子がおかしかったのか、彼女はくすくす笑って「家はどこ?」と聞いてきた。家の場所を告げると、「それなら、あたしの車で送ってあげるよ」と言った。

駐車場にあった彼女の車を見てビックリした。真っ赤なスカイラインクーペ。当時TVCMで人気の若者憧れの車だった。全然、彼女に似合わない。

驚いた様子がおかしかったのか、また彼女はくすくす笑った。

「似合わないだろ、アタシに。マージャンでせしめたんだよ。アタシャ強いんだよ。マージャン。」

車の中で彼女は、泥酔する前のボク達の議論、つまり共同幻想論について知りたがった。ボクは一生懸命、国家という幻想について、そして吉本隆明について語った。彼女は面白そうに聞いてから「あんた、これ好きかもしれない」とカ―オーディオにカセットテープを放り込んだ。

Sly & The Family StoneのEveryday People。アメリカのカウンター・カルチャーを代表する、平和と平等と連帯を高らかに歌い上げた名曲だ。

「いい曲ですね」ボクは言った。「毎日聴きたい」

「じゃ、いつでもおいで。開店前ならいくらでも聴かしてあげるよ。その代わり『共同幻想論』持ってきてよ。私も読んでみたいから」

翌日、本を届けることを口実にして、ボクは店に行った。そして、それから毎日通った。

学校が終わると、まっすぐ店に出かけ、開店準備を手伝いながら、浴びるように音楽を聴いた。ビートルズの「ヘイ・ジュード」、ストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」、ステッペンウルフ 「ワイルドでいこう!」、ディープ・パープル 「ハッシュ」などなど。1968年はロックミュージックの黄金の年でもあった。

彼女はロックミュージックの大ファンだった。だから、そんな音楽浸りのボクの様子が気に入ったようで、案内役を買って出てくれた。「あれを聴け、これを聴いたか」みたいな調子で。そうこうしている内に、いつの間にか夜の営業も手伝うようになった。店が暇なときは彼女はボクに現代思想の話をせがんだ。フロム「自由からの逃走」、リースマン「孤独な群衆」。ボクは彼女の興味を引きそうな世界の思想について語った。今思えば稚拙な理解だったが、彼女は、とても熱心に聞いてくれた。

「アタシには兄がいてね。いつも、あんたみたいな難しい話をしていた。優しい人だったよ。」「憲兵に殺されちゃったけど」

彼女は旧満州の生まれで現地では子役として映画にも出ていた、李香蘭と共演したこともあると言って、昔の写真を見せてくれた。写真の裏に彼女の本名が書いてあった。漢字三文字のとても珍しいものだった。

彼女はすっかりボクのことが気に入ったようで、コンサートや芝居などのイベントには必ずボクを付き人のように連れて歩くようになった。彼女は付き合いの広い人で、サブカルチャー人種のほとんどと知り合いのように見えた。イベント後は必ず楽屋に顔を出して感想など語りながら、ボクを紹介してくれた。「ウチの少年X.こう見えてテツガクシャだよ」

全く新しい未知の世界にボクは夢中だった。夢の国にいるような気がした。そして、その世界の住人になりたいと切望した。

そのままでいたら、おそらく、そうなっただろう。

高校での成績は目に見えて下がっていった。心配した先生から家に連絡があったらしい。ある日、生まれて初めて父親に殴られた。母は泣いていた。

翌日、ボクは身の回りの物をリュックサックに詰めてギターケースを抱えて家を出た。「もう帰らない」と書置きを残して。

新宿につくと店の前にパトカーが2台止まっていて、野次馬が取りまいていた。しばらくして、店から数人の警察官と一緒に彼女が連れ出されてきた。手には手錠が嵌められていた。ビックリして立ちすくんでいると、彼女が顔を上げた拍子に目が合った。彼女は口を開いて何かを言いかけた、が同時に警官もその動きに気づいてボクに視線を合わせてきた。

ボクは怖くなって、慌ててその場から逃げ出した。後ろも見ずに走った。そして、家に帰ると自分の部屋に閉じこもった。

翌日、どこからか電話がかかってきた。母はボクの顔をちらっと見た後「帰っておりません」と言って、父に電話を替わった。父は、かなり高圧的な態度で電話を切った。そして、直ぐ、どこか分からないところに2,3本の電話を入れた。そしてボクに向かって「お前は、向こう1週間は家から出るな」と言った。

ボクは卑怯者だ。子供だったことは言い訳にはならない。彼女にしてあげられることはたくさんあったはずだ。でも、ボクは何もしなかった。ひたすら怯えて逃げた。そして、自分がひたすら嫌っていた「親の世界」に守ってもらおうとしたのだ。

ボクは自分の「住んでいた世界」に戻った。1年浪人したが大学に進学した。彼女のことは深い傷となっていたが、それでも、歳月とともに、やがて忘れた。

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思い出したのはテレビディレクターになって、特別番組のために細菌兵器の研究で悪名高い731部隊の記録を調べていた時だ。解禁された旧ソ連軍押収資料の中に見習い看護婦(16歳)として例の漢字3文字の名前があった。関連するほかの資料はなかった。しかし、彼女は確かにそこにいたのだ。頭から血が引いていくのを感じた。

今、どうしているのか気になって新宿区の登記簿や住民台帳を調べようとしたが、個人情報保護法の壁もあって全く分からなかった。

それが分かったのは、21世紀になってからだ。

母が認知症を患い、二子玉川にある特別養護老人ホームに見学に行った。

案内されて施設内を見ていると、ある部屋の前に見覚えのある漢字3文字の氏名表示が出ていた。ドキッとして、室内を覗くと窓辺に老女が一人車いすに座ってこちらを見ていた。

思わず中に入って手を取って言った「ママさん」何の反応もなかった。しゃがみこんで座り、低い位置から「テツガクシャですよ。」と言った。

反応があったように見えた。視線がこちらに合い、口がほんのわずかに動いた。

その後、母と彼女を週に一度、その施設に見舞うのが私のルーティーンワークになった。

半年ほどたった時、私は海外出張で1カ月ほど日本を留守にした。

帰って来てみると、施設に彼女はいなかった。

心臓麻痺だったのだそうだ。

身辺整理は甥御さんがやったと言うので、住所を聞いて手紙を書いた。すると、暫くして小包が届いた。開けてみると手紙が入っていた。

「叔母の遺品の中に不似合いな本がありました。昔、学生さんから借りたと言っていました。とても素敵な学生さんだったと。お手紙を拝見していて、あなたなのではないかと思い、同梱しました。」

包みの中身は、あの時、1968年に、ボクが店に届けた「共同幻想論」だった。




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