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青木敬恵先生への手紙 [メモ]

昨日、青木先生から「荷物が届いた」との電話をいただいた。その時は私は留守だったので家内が話した。「若々しい声だった」と言った。戻ってから私から電話をさしあげた。週2回ヘルパーさんに来ていただいて基本的に一人暮らし。風呂も自分で入られるという。「気を遣わせてしまって」となん度も繰り返されたが、「20年前を思い起こす楽しい思いをさせていただいた」と感謝した。今度岡山に行ったら必ずお会いしたいのでどうか元気でいてくださいとお願いした。1年足らずの勤務だったのにこのように覚えていただいていることがほんとうにありがたい。

*   *   *  

2週間ほど前、岡山の牧石小学校の保健の先生だった青木敬恵先生から思いがけない荷物が届いた。数年前から年賀状のやりとりが続いていた。久しぶりに年賀状をいただいて、ゆっくり手紙を書こうと思っているうち、次の年賀状の時期になってしまう。こちらから果物を送らねば思っているうちに先生の方から届いた。びっくりしたし、ほんとうにうれしかった。電話で話すことができた。95歳とのことだがお声は昔のままに思えた。数えると足かけ50年前だ。すぐにも手紙を書きたかったが、目先のバタバタでようやく今日できた。

久しぶりに「記録」を引っぱり出すことになった。先生への手紙に記すことになった1972年5月20日のこと、実はその記録をもって、昭和44年(1969)1/21以来の記録の締めにしようと思っていた。そこから新しい世界が始まったから。しかし、青木先生への手紙に書いたので、久しぶりにここに留めておくことにした。

初めての出勤日5月24日の分。手紙には書かなかったが実はそのあとに次の文章が続く。

《おれはおれなりで、おれのままでやるとして、はたしてそれはやれるのか。
 先生の臭み、それを拒否すること。何か独特のものがあるのだ。それがおれにとって、浸みついたものになってほしくない。
 自分のありのままの心を保ちつづけること、か。
 先生、というくさみ。それは、おそらく、おぞけふるえるような何かなのだ。
 恐しさ。人間の恐しさ、のようなものが、プラスのものとしてそこにはある。
 できれば、それを、このノートで対象化してみたい、という下心・・・・・か。》

50年前にいだいたこの感覚、よくわかる。いったいそれはなんなのだろう、とあらためて思う。

*   *   *   *   *

青木敬恵先生

 ゆっくりお手紙書こうと思って遅れてしまって申し訳ありません。
 10年ぐらい前の心筋梗塞で、かかりつけのお医者さんからは「あれもダメ」「これもダメ」と言われるのですが、少しずつ加減をみながら、「これもデキる」「あれもデキる」とやってきて、ハラいっぱいのクスリと付き合いながら、まったくふつうと変わりない生活になっています。そんな中、昨年3月昔やっていたことのある南陽市議に22年ぶりで返り咲き、今ちょうど12月議会が終わって一段落してようやく少しゆったり気分で書き始めたところです。
 思い起こせば、牧石小学校で過ごさせていただいたのは昭和47年(1972)の5月から48年の3月まででした。あしかけちょうど半世紀前のことです。それでもついこの前のことのように、何もかもありありと思い出すことができます。おひとりおひとり、職員室の様子とともに先生方のお顔も浮かんできますが、とりわけ青木先生には母と同年配ということもあって、いいように甘えさせていただいていました。残った給食をいただいて夕飯にしたことも忘れられません。
 昭和41年に岡山に行って寮生活。3回生の秋頃から大学が騒々しくなりだして、明けて1月にスト権確立ということで大学の講義ストップ、機能停止。9月ごろからなし崩しに講義再開したのですが、意地を張ってその年の講義に出ず、2年留年の形になって卒業が47年の年でした。
 そんなこんなで4月になっても先行き決めかねて、玉柏の長屋で悶々としていたところに飛び込んできたのが牧石小の話でした。久郷先生が担任の水本正春のお母さんの実家が玉柏駅前の行きつけの床屋で、その縁でした。牧石小へ一人転入があった(宮下始)ことで、クラスが2クラスから3クラスになるために教員を探していたとのこと、中学と高校の社会科教員免許はあっても小学校はないので仮免許資格での採用でした。
 思い出にふけることをお許しください。
 当時の日記をひもといてみました。1972年の5月20日午前10時20分にこう書いています。

《小学校の先生への道が開けてくるということ。
 おそらくその道に入るんだと思う。何か遠い現実のようになっていくけど・・・ひとりで考えている時は。
 とにかく、行動の前に、このノートを開く気になったのだ。
 うまくゆきすぎているのか。それとも何かワナがあるとでもいうのか。
 この突然さのゆえに、いままでのおれにとっては、現実からは遠いのだ。
 ひとりで考えたところで決心のしようはない。いつも、おれはそうであったように、自らの流れを、その方向に見出すことだけが、おれにとっての決心の仕方なのだ。
 いまここで、時が必要なのか。  自然であるための時が。
 遠くなる、ということはどういうことなのか、いまのおれにとって。》

 それまでの暮らしから考えるとほんとうに思いがけないことで、気持ちの切り替えに戸惑っています。その切り替えのスイッチを入れてくれたのが子どもたちでした。5月23日の夜11時40分に書いています。

《昨日、25才の誕生日。そして、とにかく今年一年間の生活の保障が確実となる。つまり、牧石小学校への助教諭としての赴任が決定。今日、授業を見学。  あまりに子供達を理念化してしまっているのだろうか。裏切られてしまうのではなかろうか、という不安。あの、涙の出るような、とにかく、思わず涙がこみあげてくるあの気持は、持続しうるものなのか。ほんとうに、おれは、そんな気持になっていいのか。あれがあれば何も恐くない、ともいえる様なもの。
 imageが俺の得手勝手な方向へのみかけめぐり、こんなぜいたくな気持をもっていいのだろうか、という不安。ウラギラレテしまうのではあるまいか、という様な。
 下宿に帰って流しでガタゴトしている時、近所の女の子供が二人、「ここが先生の家だ」と外で言っているのを聞き、窓を開けてみると、おれのクラスに入る子供なのだそうだ。
 何はともあれ、おれはおれなのだなあ、というのが、この日記に向かっての感じ。これまでの日常がすっかり変わったとしても、おれであるようなおれはそう変わるもんじゃあない。変わってたまるか、という気持もある。この日記に向かう時には。そこが興奮も何もない場所。
 隣のTVが聞こえるうちに寝る自分になったか。》
 
 初めて学校に行った日のことをありありと思い浮かべることができます。それまでとは別世界に思えたものでした。家に戻ったら間もなくして、内田久美子と深井修子が外から声をかけてくれたのでした。深井修子は数年前、山形まで来てくれたことがありました。
 大学に入って間もない頃から大学ノートを持ち歩いて、その時々の気持ちを記す習慣がありました。5月23日で、ちょうど4冊目を終わっています。5冊目の冒頭、5月24日、出勤第一日です。

《校長さんが今日の授業をしてくれる予定が、2時間目から僕(「おれ」と書いたのを消して「僕」にしています)がやることになる。
 2校時 さんすう
 これまでの復習ということで、たし算、ひき算、不等号について。
 4校時 社会
 みせのしごと。
 3校時 理科
 たんぼや川の動物。
 どれもこれもゆきあたりばったり。授業に臨むに全く下調べもせずにやって、子供に教えるというのだからいいかげんなもの。
 帰りに校長さん曰く、「どんなに忙しくても下調べをやりなさいよ。」授業を甘くみられちゃいけないということか。
 給食をやって、掃除を終わって、子供を送りだしたあと、教室の机にひとり坐っていると、どっと疲れがでてくる感じ。大分声をはりあげたし、毎日この調子ならどっかが狂ってくる。これも 地?
 少しずつ、現実というものが身体に感じられる様になるんだろう。そうしてありのままの現実を肌身に感じとってはじめて、それから子供は自分のものになる可能性が開けてくるものだろう。》


それから七転八倒の日々が始まります。
 出勤初日の稲垣校長の「どんなに忙しくても下調べをやりなさいよ。」の一言はありがたい言葉でした。その言葉のおかげで、翌日の授業をあれこれ考えるのが楽しくなり、家に戻るなり、やった授業を思い起こしては記録するのが日課になりました。ひとりぐらしでなんでも自分の思うままにできたぜいたくな時代でした。家庭を持ち、子育てにも大忙しであったろう大森先生なんかに羨ましがられたのを思い起こします。
 いつも思うのですが、私の人生の中で、いちばん中身の濃い一年間でした。あの一年が私にとってのひとつの規準になっているような気がします。「あの一年に比べて今はどうか」と思ってしまうのです。ほんとうにありがたい一年を過ごさせていただいたのです。
 3年前、岡山に行く機会がありました。岡山時代のいちばん親しい友人の二宮啓憲くんがサプライズを用意してくれました。今も年賀状のやりとりのある安藤(現 真賀)典子、佐々木知子、津島公子と会う場を設けてくれていたのです。そのときのことをブログに記録しておきましたので同封します。 真賀さんがちょうど牧石小勤務で、すっかり変わった牧石にも行くことができました。あの時青木先生に行けば行けたのにと、いま悔やんでいます。コロナ騒ぎがおさまれば、大学の寮の同窓会が開かれることになっています。その時にはぜひお会いしたいと思っています。どうかお元気でいてください。
 お礼が遅れてしまいました。心づくしのお菓子の品々ほんとうにありがとうございました。こちらから何かお送りしたいと思ってもいたところでした。思いがけない荷物の到着に驚き、そして興奮するほどうれしかったです。
 当地産のりんごとラ・フランスお送りします。岡山も果物の美味しいところでしたが、山形も果物が豊富です。ご賞玩ください。
 昨年まで、第2回の卒園生ということで幼稚園の理事長やってました。毎年卒園文集に書いた文章を一冊にまとめました。その時々、いちばんに思っていることを書いたそれぞれ思い入れのある文章です。青木先生にお読みいただけたらと思うとうれしいです。
 まだまだ書くことはありそうですが、また遅れ遅れになりますので、いずれお会いすることにしましょう。どうか元気でいてください。
 今年も残すところ1週間、良い年をお迎えください。

    令和4年12月24日

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めい

<2021年、彼らのやったことを忘れるな!>東京五輪めぐり増田明美と有森裕子が論争! コロナを無視して開催を主張する増田のスポーツ至上主義に有森が「社会への愛が足りない」(リテラ)
http://www.asyura2.com/21/senkyo284/msg/757.html
   * * * * *
有森裕子さんは牧石小卒業生。

by めい (2021-12-28 07:48) 

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