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『激論ー全共闘 俺たちの原点』を読む [本]

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前記事で書いた前之園さんが懐かしく思い出されて、『激論ー全共闘 俺たちの原点』(講談社 1984)を求めて一気に読んだ。
参加者それぞれのコメントがある。立松和平氏、《石を投げることはそもそもの発端にすぎず、その後の十余年の遅々とした歩みのほうがむしろ重いのだ。この十余年間で思い知ったことは数多くあるが、たったひとつ他人に語れることがあるとすれば、個人は世界を担いきれないということだ。》よくわかる。そういえばあの時代、だれもが世の中を背負い世の中を変えれるように思っていた。マルキシズムがそういう思想だったのだ。大学中がその思想にかぶれていた。おそらくアンチマルクスにしても、立つ地平は同じだ。立松氏にしてもその後の十余年はその地平からどう脱け出るかの十余年だったのだと思う。
自分自身を振り返れば、吉本隆明のみちびきもあって、ひたすらの沈潜へ向かうことになる。メルロー・ポンティとの出会いがある。当時こう書いた。サルトルは肌が合わなかった。→「もっと別の言葉/メルロー・ボンティ哲学における他者の問題https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21
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メルロー・ポンティの死に際して書かれた『生きているメルロー・ポンテイ』の中でサルトルは次のように言っている。

《彼は間違いを犯したと思った瞬間に政治を棄てた。毅然として。しかし、有罪の身となって。彼はそれでも生きようとし、自閉した。》(『シチュアシオンⅣ』平井訳 p.203)
《えらばねばならぬ瞬間が来たとき、彼は自己に忠実でありつづけ、統一が見失われてしまった後にも生き残らぬように自沈してしまった。》(同上 p.214)

 またサルトルはこうも言う。
《彼はニューヨークでエレベーターボーイになるというのだ。気の重くなる冗談だった。それは自殺の表現だったから。》(同上 p、201)

 決して冗談などではなく本気だったのだと思う。ここにサルトルとの違いがある。メルロー・ポンティという人格に備わった倫理性がある。
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結局大学に6年間、そのあと3年間のいろいろを経て、家業に入ったのが昭和49(1974)年の暮れ。もう「〇〇主義」とかとは関係ないと思っていたのに、「地域主義」という「主義」と出会ったのが昭和54(1979)年。私には、マルクスをひきずる玉野井芳郎氏より国民金融公庫あがりの清成忠男さんが新鮮だった。→「「地元で買物キャンペーン」の記憶からhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-04-15」徳田さんとの出会いはそのあと間もなく昭和56(1981)年の2月だった。→「徳友会新春交流会https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2011-02-23
前之園紀男.jpgこの激論、中上健次氏が断然光っているのだけれども、その中上氏と全共闘との関わりをつけたのが前之園さんだったらしい。この激論当時、前之園さんは根室で北方領土返還運動に取り組んでいた。中上氏は言う、《北方領土における暴力というのはつまり、暴力がもういっぺん元の状態に戻って愛情とか人間の生きる活力だとか、いろんなものを同時にいっぺん孕み直しているということです。ふつうは、都会のなかで学生たちがカルチェ・ラタンをやっていった果てに、人間性みたいなものがなくなって、もうただ殺しちゃうみたいなことになるわけでしょう。ところがそれを元へ戻して、辺境という北の果てで、ああいう正義の運動の闘いみたいのがあると。》破滅に至った連合赤軍と、たまたま牢獄に在って渦に巻き込まれることから免れ得た前之園氏の今の立場、中上氏の言葉から、前之園氏の生き方に、かつての同志への鎮魂の思いを感じさせられた。過去を知らない私には、前之園氏はどこか影のある「いい人」に思えていたのだった。

前之園氏のおかげで読んだこの本をめぐっては、もっと書くことになると思う。



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