SSブログ
前の10件 | -

ドキュメンタリー映画「日本原ー牛と人の大地」 [メモ]

松本宣崇からの年賀状に、《2022年、私にとって一番喜ばしい出来事は、岡大時代からの友、内藤秀之が主人公のドキュメンタリー映画「日本原ー牛と人と大地」が完成したことでした。》とあった。青井秀之.jpg年賀状の写真、よく見ると青井(旧姓)の写真だ。

青井のことは、「1961.5.11〜5.13」に書いていた。→https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-02-24-1

5.1211:05pm 全共闘と民青ぶつかってるらしい。あわただしい学内。
結局、おれ日和ってるんじゃあなかろうか、という気持。あの行動が挫折すると・・・。
しかし、生きながらの破滅から逃れようとする限り。
しかし、この代償を支払うことはできるのか!?  さっき、青井のかすれたマイクの声が聞こえた。》青井のことを思い出して《「青井」の名も懐かしい。津山高出身の医学部生で同年、中途入寮だったが、2回生の時部屋が向かい同士だった。青井と相原の丁々発止の議論を舌を巻きながら傍で聞いていたことがある。大学とはこういう連中の居るところか、と。青井は「民学同」、相原は創価学会だった。青井は大学紛争の終息とともにドロップアウト、郷里に近い酪農家に婿入りしたと聞いたきり、頭も気持もいい男だった。》ほんとうにいい男だった。その後どんな人生を歩んでいるのだろうか、とずっと気になっていた。

「日本原ー牛と人と大地」の公式サイトというのがあった。→https://nihonbara-hidesan.com/《岡山県北部の山間の町、 奈義町 なぎちょう 。人口6,000人のこの町に陸上自衛隊「 日本原 にほんばら 演習場」がある。日露戦争後に旧陸軍が村々を強制買収して設置、占領軍に接収されたのち自衛隊に引き継がれ、今日に至る。奈義町は自衛隊との「共存共栄」を謳ってきた。日本原では昔から地元住民が山に入って土地を共同利用する「入会」が行なわれ、演習場内の耕作権などが防衛省から認められている。しかし、いまや場内で耕作しているのは本作の主人公・内藤秀之さん一家だけとなった。“ヒデさん”と親しまれる内藤さんは50年にわたり牛を飼い、田畑を耕してきた。彼を知る人は言う。「ヒデさんは医者にならずに婿入りして牛飼いになったんよ」。》

予告編が観れた。50年前そのままの青井がいた。つい自分と比較してしまうが、青井の生き様がうらやましいほど真っ当に見える。「農」のせいか。50年前そのままの顔つきであるのが、ほんとにいい。

それはそれとして、青井なりの公権力との戦いの歴史があったことが以下からわかる。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

「こころ旅」岡山編に応募 [メモ]

「こころ旅」https://www.nhk.or.jp/kokorotabi/schedule2022autumn.html

*   *   *   *   *

ちょうど50年前の昭和47年(1972)の5月でした。大学紛争のおかげで6年間在籍して大学を卒業したものの、就職先も決まらず宙ぶらりんの日々のところに、住んでる下宿(間借り)に近い小学校から代用教員の話が飛び込んできました。2年生に急な転入生があって1学級増えることになったというのです。小学校教諭の資格はありませんが二つ返事で引き受けました。そのことはすぐ子ども達に伝わったとみえ、その日のうちに、道路に接した下宿の外ではにぎやかな声が飛び交いました。

 

それから翌年の3月まで、31名の子ども達を相手に過ごした1年間は、75年間生きてきた中でいちばん充実した1年間でした。思う存分自由な気持ちで子ども達と関わっていました。学校の南側にある小さな山に子ども達を連れ出して、「秋を探そう」とか言って勝手に遊ばせたりしたこともありました。全て自己流でまわりの先生の顰蹙を買っていた面もあったと思いますが、今思えば1年だけということで大目に見てもらっていたのかもしれません。贅沢な1年間でした。

 

その後高校教員を2年勤めた後、家に帰って家業の染物業を継いで今に至っています。2年生だった子ども達が卒業の時、「牧石小学校」と大きく染め抜いた手染めの鯉のぼりをつくって送り、喜ばれたのもいい思い出です。

当時私の母と同じ年齢ということで、残った給食を晩飯にとって置いていただいたり、よく面倒みていただいた養護の青木先生との手紙や電話での交流が、数年前からはじまりました。100歳近いのですがとてもお元気です。今でも息子のように思っていただいています。そんなことから50年前の記憶を思い起こすことが多くなり、岡山と聞いて「こころ旅」に応募したくなった次第です。

 

18歳から26歳まで8年間岡山で過ごしました。4年間の寮生活のあとは4年間玉柏で自炊暮らしでした。自転車で行き来した用水沿いの道、そういえば3学期の始業式の日、目が覚めたら8時過ぎ、その道を猛スピードで飛ばして学校に着くも大巾遅刻、それを優しく迎えてくれたのが職員室の青木先生の笑顔でした。幾分その笑顔にほっとしつつ、気まずげに整列の済んだ体育館に入っていった、そんな情景もよみがえってきました。

 

牧石小でのあの1年間が、その後の私の人生にどれだけ力になってくれたことかと今あらためて思わされています。

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

重信房子と遠山美枝子(江刺昭子) [メモ]

《純粋な若者たちをなぜ失わねばならなかったのか、考え続けなければならない。》

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

「若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります。」(北原 俊史) [メモ]

私より4歳下、昭和26年生れで元NHKスペシャル番組部プロデューサー北原 俊史氏の文章メモっておきます。大学紛争論として、当時の空気がそのまま伝わってきます。明治維新とのアナロジーも初めて考えました。明治維新もよく似た構造を持っていましたが、様々な僥倖が重なり、最終的には若者たちが政治権力を握りました。》
おまけについていた高校時代の小説仕立てのエピソード、読ませられました。若い人と議論などした覚えはありませんが、若い世代には敵わない、なんとなくそう感じていました。われわれがようよう辿り着いたところがあたりまえのようになっている、そんな感じでした。ただ、「ようよう辿り着くプロセス」がその人にとっては、だれにもわかってもらえないし、わかってもらいたいとも思わないその人のほんとうの「固有性」なのだと思います。私が自分の日記を掘り起こしてここに書いているのは、言って見れば、ようよう辿り着いた後のことです。だから書けるのです。→「<追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-21 
北原氏の言葉「若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります。」を表題にしました。参政党に期待しているのですが・・・
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「あの時抗っていれば…」と後悔しても後の祭り(長周新聞) [よびかけ]

重信さん5.28.jpg重信房子さんが、昨日(28日)朝、20年の刑期を終えて出所した。出所直後の会見で、「20年経って外に出て、今いちばん感じていることはなんですか?」の問いに、「あまりに昔と違ってひとつの方向に流れているんじゃあないかというのが、このたびのゼレンスキー大統領の国会の演説に、だれもが、れいわを除いて、スタンディングオベーションをしたところに、現れていると思います。国民がそうでなくても、政治家が一方向に流れているというのが実感です。」と語った。→https://www.facebook.com/100006876720900/videos/525816325896230

同年代(昭和20年生れで2級上)の言葉として我が意を得た思いで聞いた。重信さんについては「重信房子をかくまった医師」の記事がある。その村田先生が自由連合から参院選山形地方区に出た時応援した。また重信さんとともに赤軍派創設メンバーの花園紀男氏との縁もある。そんな親しさも勝手に感じている。いま見る限りの報道ではこのやり取りには一切触れられてはいない。マスコミも一つの流れに流されている。重信さんの言葉の中で、「れいわを除いて」と「国民がそうでなくても」が重要だ。あきらめてはならない。

そんな中、『長周新聞』の記者座談会改憲による戦争か平和かの岐路 6月参議院選の重要な争点 日本列島を戦場にするな」がすごい。転載してじっくり読んだ。長いが読む価値がある。大事なことが網羅されている。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

全共闘世代はなぜダメなのか [よびかけ]

「目を覚ませ!全共闘世代」と書いたのは、昨年の6月だった。→https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-1 副島重掲板に転載し、→http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/6234 放知技板からリンクしておいた。→https://grnba.bbs.fc2.com/reply/17289842/320/ なんの反応もなかった。がっかりしてこう書いた。《後期高齢者に差し掛かったその世代、数ではこの歳になっても負けてはいない。今もって「団塊」をなす。しかし、50数年前のあの体験を、あの時代の感覚を、なんら世に活かすことなく「隠しておきたい過去」のまま、墓場に引きずってゆくのだろうか。あの時代の感覚がいささかなりとも息づいていれば、まさか「70歳代のワクチン接種率(2回目/2月7日現在)93.99%」の数字はなかったはずなのだ。慚愧である。/そういえば、西森マリー著『カバールの正体』にこうあった。《1960年代のヒッピー・ムーブメントは、キリスト教の倫理を破壊するためにタヴィストック研究所が仕掛けたもので、CIAが密輸した麻薬がアメリカ人のヒッピー化を助長した》学生から会社人間へ、そこのところでいとも簡単に「節度と規範」を捨てた全共闘世代。彼らに「一貫性」という言葉ほど似つかわしくない言葉はない。そもそもそうしてしまうことこそが、カバールがわれわれ世代に仕掛けた罠なのではなかったか。そしてたやすく流行に乗る人間をつくりあげることに成功した。そういう人間たちが、何の疑いもなくコロナワクチン接種に雪崩打つのは必然なのだ。》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-02-10-1
「受験競争」にどっぷりはまりこんでいたせいで、この文章そのままの人間が、「団塊世代」でもある「全共闘世代」だったのです。私はといえば、家に戻ったおかげで、それまで身についていたものをいかに脱ぎ捨てるかが切羽詰まった課題になりました。学生時代吉本隆明に出会っていたおかげともいえます。→<追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になったhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-21 
2006年にこう書いていました。今の私は教科書運動以前の私個人の体験に根ざした戦後の公教育に対する違和感まで遡って考えようとしています。それがあったからつくる会の運動にも関わることになったのですが、私にとっては、歴史認識を問題にしたつくる会の運動よりもっと根源的で、それゆえ切実です。/私の個人的体験を言えば、10年間家を離れて暮らした後、地元に戻って最初に入ったのが消防団でした。そこで地元に根ざして生きている世代を超えた人たちと出会い、いったい自分が受けてきた大学までの教育とはなんだったのかと思い知らされました。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-19
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

『激論ー全共闘 俺たちの原点』を読む [本]

「俺たちの原点」.jpg「俺たちの原点」 1.jpg
前記事で書いた前之園さんが懐かしく思い出されて、『激論ー全共闘 俺たちの原点』(講談社 1984)を求めて一気に読んだ。
参加者それぞれのコメントがある。立松和平氏、《石を投げることはそもそもの発端にすぎず、その後の十余年の遅々とした歩みのほうがむしろ重いのだ。この十余年間で思い知ったことは数多くあるが、たったひとつ他人に語れることがあるとすれば、個人は世界を担いきれないということだ。》よくわかる。そういえばあの時代、だれもが世の中を背負い世の中を変えれるように思っていた。マルキシズムがそういう思想だったのだ。大学中がその思想にかぶれていた。おそらくアンチマルクスにしても、立つ地平は同じだ。立松氏にしてもその後の十余年はその地平からどう脱け出るかの十余年だったのだと思う。
自分自身を振り返れば、吉本隆明のみちびきもあって、ひたすらの沈潜へ向かうことになる。メルロー・ポンティとの出会いがある。当時こう書いた。サルトルは肌が合わなかった。→「もっと別の言葉/メルロー・ボンティ哲学における他者の問題https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21
*   *   *   *   *
メルロー・ポンティの死に際して書かれた『生きているメルロー・ポンテイ』の中でサルトルは次のように言っている。

《彼は間違いを犯したと思った瞬間に政治を棄てた。毅然として。しかし、有罪の身となって。彼はそれでも生きようとし、自閉した。》(『シチュアシオンⅣ』平井訳 p.203)
《えらばねばならぬ瞬間が来たとき、彼は自己に忠実でありつづけ、統一が見失われてしまった後にも生き残らぬように自沈してしまった。》(同上 p.214)

 またサルトルはこうも言う。
《彼はニューヨークでエレベーターボーイになるというのだ。気の重くなる冗談だった。それは自殺の表現だったから。》(同上 p、201)

 決して冗談などではなく本気だったのだと思う。ここにサルトルとの違いがある。メルロー・ポンティという人格に備わった倫理性がある。
*   *   *   *   *
結局大学に6年間、そのあと3年間のいろいろを経て、家業に入ったのが昭和49(1974)年の暮れ。もう「〇〇主義」とかとは関係ないと思っていたのに、「地域主義」という「主義」と出会ったのが昭和54(1979)年。私には、マルクスをひきずる玉野井芳郎氏より国民金融公庫あがりの清成忠男さんが新鮮だった。→「「地元で買物キャンペーン」の記憶からhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-04-15」徳田さんとの出会いはそのあと間もなく昭和56(1981)年の2月だった。→「徳友会新春交流会https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2011-02-23

続きを読む


nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:

『「知の巨人」が暴く 世界の常識はウソばかり』 [本]

世界の常識はウソばかりのコピー.jpg副島隆彦・佐藤優対談本『「知の巨人」が暴く 世界の常識はウソばかり』(ビジネス社 2022.2.1)を読んだ。第2章「戦後リベラルの正体」の第3節「新左翼とは何だったのか」。二人の学生運動の関わりが語られる。最後の「繰り返すべきでない新左翼運動の悲劇」をそのまま写す。
*   *   *   *   *
副島 日本の過激派の学生運動、新左翼たちの運動は70年代で死に絶えました。現実味のない愚かで空疎な戦いの中で人生をボロボロにしていった約20万人活動家たちの魂を、私は引きずっています。バカだった、だけでは済まない。
 新左翼の各派に、公安警察のスパイがかなりの数で潜り込んでいました。そして彼らが内部から扇動して内ゲバを嗾(けしか)けた。敵対するセクトの幹部たちの住居を教えて、ナタやバールをもって襲撃して惨殺させています。殺し合いが始まると互いの憎しみが頂点にまで達して、さらに血で血を洗う抗争になりました。
 私はどんな国でも同じでしょうが、国家権力、警察というものの恐ろしさを、腹の底から知りました。大きく騙されてこんな殺し合いに嵌っていった人間は、限りなく愚か者です。息子たちを殺された親たちの嘆きは、とても言葉にならない。
 それでも私が知り合った、どこの大学の過激派の活動家たちも、みんな人間が良くて優秀な人たちでした。一人ひとりは、その後厳しい人生になった。ほとんどの人は、過去を隠して生きているでしょう。
佐藤 怖いのは、誰も左翼の活動のことをよく知らないまま、再び左翼思想が注目される時代となり、人々が無自覚的に時代の波に飲み込まれてしまうことです。そうなると、かつての左翼たちが犯してきた、さまざまな誤りや悲劇が繰り返されることになります。
*   *   *   *   *
副島氏は昭和28年生まれ、佐藤氏は昭和35年生まれ、私よりだいぶ若い。二人は、「大学争」を見ているが、私が体験したのは「大学争」だった。

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

1969.7.22〜7.29 [当時の「記録」]

なぜ今頃、あらためてノートを開く気になったのか。いま7/29分を写し終えて、コロナ禍のいまと当時が重なった。
この年の1月26日にストが始まって講義もなく無為のうちに半年が過ぎている。みんないったい何をしていたのか。ひたすら物憂い夏だった。当時の感覚、コロナの今と似ているとふと思えた。既視感がノートを呼び寄せたのかもしれない。
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.7.17〜7.21 [当時の「記録」]

久しぶりにノートを開く。なんと2020.3.9以来、もう2年近く経った。

原田環external-content.duckduckgo.com.jpg原田と何を話したのかは覚えていないが、書き写しつつ原田が目の前に現れてくる。革命家にこそならなかったが、一貫した人生を歩んだと思う。初志を貫徹して朝鮮史学者として名を挙げた。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%92%B0

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。