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1969.3.9 [当時の「記録」]

原田は東洋史専攻。一回生の時から「ぼくは朝鮮史をやる」と言って、その初心を貫いた。その分野では結構重きを置かれているようだ。ウィキペディアに掲載されている。卒業後も行き来があった。新婚間もない広島の家に泊めてもらったこともある。年賀状のやりとりはずっとつづいている。「新しい歴史教科書をつくる会」当時、情報交換した。私にとって原田は、源司郎さんともろにかぶる。東日本大震災で東日本が放射能で住めなくなるかもしれないということで、真庭の落合町の家が空いてるから、よかったらそこに住め、と言ってよこしてくれたことがある。私はともかく、雪がいやな息子はかなり心動いたらしい。息子が半年ほど旅に出た時、真庭周辺を丹念に回って、広島の原田の家も訪ねてお世話になってきた。

《今の地点では、おれは思想的には小状況内を出ることができない。おれの活路はそこだけ?》その後の自分が予見されている。メルロー・ポンティが批判的に取り上げられていた矢内原伊作の『サルトル―実在主義の根本思想』 (中公新書)に出会ったのは半年後くらいだろうか。サルトルにはメルロー・ポンティは大状況から逃げ出したように見えたのだったが、私にはそのメルロー・ポンティに言い知れぬ親しさを感じたのだった。メルロー・ポンティは1960年に亡くなっていたが、生きていたら会いに行きたいくらいだった。何のためでもない、徹頭徹尾自分のために書いた卒論だったと、こうして当時の記録を書き起こしながらつくづく思わされている。ほんとうにメルロー・ポンティとの出会いのおかげで、「いい大学体験だった」と胸を張って言えることになる。→「メルロー・ボンティ哲学における他者の問題」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21

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1969.3.7〜3.8 [当時の「記録」]

蔦宗さんは私が新入生として入寮した時、医学部の4回生。大学というところはこういう人が居るところなんだと驚いた。戦前の旧制高校時代そのままの雰囲気だった。おそるおそる近づいては御高見を賜ったものだった。その蔦宗さんが大学紛争の中で「闘争」に目覚めた。医学部なりの事情があったのだと思うが、私には思いがけないことだった。蔦宗さんから見れば、私の立ち位置は不可解だったにちがいない。それにしても蔦宗さんには何かとお世話になった。厚生省に入省され、平成の初め頃、新潟検疫所の所長時代、家にも来ていただいた。ずっと独身で通されたと思う。その相手探しに本気になったこともあるが叶わなかった。逆に大きな借りがあって、甘えっぱなしになっている。ここにこうして当時のことを書き続けるのも、蔦宗さんに借りを返す一環、という思いもある。わかっていただけるものと思う。どうしておられるだろうか。

深川も林もほんとうに真面目に「闘争」に関わっていた。それだけに話すと後ろめたさを感じさせられたのだろう。深川は愛知の実家に帰って写真店を開いた。このたび、何年か前亡くなったと聞いた。独自な世界を持っていたので、ユニークな作品も残しているのではないだろうか。名古屋での結婚式に二宮とともに招かれて受付をさせられた。名古屋の結婚式の派手さに無知で、受け取るお祝いの金額に驚いて包み直したのを思い出す。林とも入学当時からの思い出があるが、その後の消息はわからない。和歌山に帰って中学か高校のいい歴史の先生になったと思う。6回生(2年留年した)の春だったと思うが、教育学部の宮坂先生の「教授学」がおもしろい、と教えてくれたのが林だった。ほんとうに後々につながるいい講義だった。そこで斎藤喜博先生を知った。その年(昭和46年)の秋、斎藤喜博先生の集中講義を体験できたのは私にとって大学時代の宝物だ。ちょうどその時、祖母危篤の報が入って山形に帰るも、斎藤先生の講義が聴きたくてすぐ岡山に戻り、祖母の死に目に会えなかった。斎藤喜博という人の教壇に立った時の迫力には圧倒されるものがあった。今も体感として記憶する。たしかに「授業の神様」と言われるにふさわしかった。それを体験できたのは林のおかげだった、といま気づいた。無器用だが誠実の塊のような人間だった。元気で生きてるか?

橋本さんとのこれからの展開も楽しみです。

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