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1969.3.16〜3.17 [当時の「記録」]

独り相撲のクライマックスと言っていい電報事件。実家で受け取った橋本さんも迷惑だったろう。でもすぐ電話をくれた。どんな服装でいたかも含めて、寮の管理人室の電話で話す自分の姿を今でも思い浮かべることができる。その前の晩、いちばん何でも言える友人だった森本、二宮と、わけがわからなくなるまで飲んでいた。橋本さんのこともこの時初めて語ったのかもしれない。電報事件はよく覚えているが、このたび書くまで前の晩の記憶はなかった。まだ酒醒めやらぬ翌朝の出来事だったのだ。酒の勢いか。橋本さんに会うことがあって思い出話をすることを許してもらえるなら、この時のことから話すことになるだろう。覚えていてくれたかどうか。

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1969.3.15 [当時の「記録」]

後にこのころの状況をふりかえり、こう記述している。男女間のいわゆる〈愛〉とは、全的に〈私〉でありつつ、全的な〈他者〉として、相互に心的関係を結ぼうとするところに、その本質的志向があると考えられる。しかし〈片想い〉は、一方にその志向が働いているにもかかわらず、他の一方にはそれがない。すなわち、〈私〉は〈他者〉の存在全てを、〈私〉と同価のものとして〈私〉にとってあらしめようとするにもかかわらず、その〈他者〉は、〈私〉にその全てを開いてくれようともしないし、〈私〉を自らのうちに取り込もうともしない。≫「メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」 第二章 第四節 「〈他我〉としての他者」)この状況の中での七転八倒。またこうも書く。実らぬままの〈片想い〉の虚しさは、共に生きようとして生き得ず、〈他者〉を勝手に自分のうちにでっちあげるか、代償の得られぬままに、私にとっての私を他者にまるっきり委ねてしまうというところにある。その空虚さを救ってくれるものがあるとすれば、そればナルシシズムだけである。≫(〃) すなわち、七転八倒の中にチラリと見出す「ナルシシズム」の影、それがまた「苦しみ」に拍車をかけるが、そこでまた救われる。そのいたちごっこの無間地獄。次章でこうも書いていた。われわれは、〈対自〉としての私が他者の中で生きてゆこうとする時、その私が他者からはわからないということへの不安あるいは不満がある一方、逆に、他者が誰にもわからないつもりの〈対自〉としての私に侵入してきたと自覚される時、また別の切実さをもって、他者が問題になる。太宰治の『人間失格』は、その問題において切実である。主人公は、〈対自〉としての私と〈対他〉としての私の裂け目で苦悩する。われわれはそこに、掛け値のない〈やさしさ〉を、しかしまたその一方で、鼻持ちならない〈傲慢さ〉を見出す。そしておそらく、〈やさしさ〉と〈傲慢さ〉とは、自らに〈やさしさ〉を自覚した時、傲慢であり、自らに〈傲慢さ〉を自覚した時、やさしい。そこに果てしのない、それゆえどこかでふんぎりをつけて開き直らねば生きてゆけない、人間存在のもつ苦悩がある。そしてその果てしのない苦悩を強いるものこそが、人間存在の根源にある〈倫理性〉というべきなのかもしれない≫(「メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」 第三章 第三節「根源の倫理性」) このころの体験あってのこととあらためて気付かされた。

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