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「四季」をめぐって(2) [劇台本「四季」]

「3年の諸君へ」は議論への呼びかけだった。何人ぐらい集まったのだろうか。たしか新々寮の集会室で車座になって語り合った。その時のメモが残っていた。意味不明もあるがそのまま写す。(は女性)

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二宮  「死」の問題が中心。死んだ者は他人にとってゼロになるということに共鳴。愛についてはたいして考えず。「死んだらどうなるか」が基軸。しかし、この劇をやって、観ている人に「死」は後ろにひっこむ。もっと「死」を前面に押し出したい。
中原  問題なのは社会問題が雑多に出てくる。マイホーム主義に関しての問題提起。
三宅(洋)  ふみ子が死んでも生きている一男。何かあるんじゃないか、と求めて生きている。惰性のような生き方でいいと思う。そうして生きながらいろいろなことを感じる。愛は逃避とは考えない。絶対に必要なものだから。死んで時間がたったらみんなわすれてしまう。
永江  死んだらみなわすれてしまうものさ。
森本  テーマをひとつにしぼるべき。それを明らかにして。
野間  一男、社会の競争に負けた敗北者。一男が競争を意識すると劣等感。これは家庭以上のものか。劣等感をごまかす場所としての家庭。
   最初に感じたこと。一男、社会の問題を考えていた人間がマイホーム主義の中に傾斜してゆく。ふみ子の死によってマイホームの破壊。荒んでる人間に竹田は説得する力を持ち得ず。自信を持ち得ない人間。だれも自信を持ち得ない人間。自分自身葛藤している普通の人間。テーマはっきりはしないけど、もう少し考えてみて。同じところをグルグルまわる一男。あや子への求婚。惰性でも生きてゆける一男。一男は何を求めて求婚したのか。
井沢  みな同じ人間。特異な性格を持った人間が出て来ねばならない。
   他の人間が出てくるとすれば、竹田。
井沢  一男は公的な社会での競争的人間。「私」をいえる私的な人間の登場。それは「女」。絶対、山口。
三宅(芳)  筋は変えたくない。仕事に熱意を持つ後藤が一男をあとおしする形に。自分自身が出てくる必然性。どういう役割で出てきたのかわからない。単なる時間の延長?
   公的、私的。ふみ子が死んだら会社なんてどうでもいい。
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野間  ドキッとした。自分自身の生き方が書かれているような気がした。嫌いだがそうせざるを得ない。反対したいが、自分自身を考えると逃げ出すことができない。そういう面でいい。
三宅(洋)  何を生きがいにして生きているのか、というものをはっきり持っている人はいない。いろんな問題を含んでいるこの劇をやって、みんないろいろ考えるならいいと思う。
難波  あや子との結婚、はやすぎた。ドタバタ的。家庭でのマイホーム主義の為、仕事での男の(?)→二つに切り離してしまうところに疑問。家庭は単なる安息の場ではなく、社会の、世界の基盤。一男の虚無感ばかりでなく、葛藤をもっと積極的に出すべき。葛藤の末の結婚生活によって、社会生活する上でも本来の実力を発揮できるようにしたい。
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相原  あや子と一男は不自然であってもいい。しかし、それ以前に一男に考えさせよ。その葛藤の帰結としてのあや子への求婚。
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石倉  不自然に思わなかった。こういうこともありうる、と感じる。自分と似ているところ。あや子の再婚前の考え方。
成本  反対。ニヒリズム礼賛的。フーンと思っただけ。劇としてみてもすーっと入れん感じ。愛がこの劇で問題になっていると思えない。この劇読んで五年か先思う。どうにもならないことが決定的になっている感じ。ものすごく反発感じた。私からしたら悪い例を劇にしたように思える。こういう風にはならないと思う。
永江  最後にまとまったらいい。

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