「四季」(’68寮祭文化祭三年演劇台本)(1) [劇台本「四季」]
1969.3.20 [当時の「記録」]
宙ぶらりんのしんどさのようなものが伝わってきます。こんなときもあったのか!? 半分他人です。
謙次くんは3年間家庭教師して、志望高校に無事合格。それでお祝いに映画に行ったのか。なんの映画だったのか覚えてないが、マンガ映画だったような気もする。謙次君の家は岡山市内の南の端で自転車で30分ぐらいだったか。結構遠かったが、大学の外の空気を吸って、解放感があった自転車乗りだったように思う。週2回で月5,000円。奨学金8,000円もらっていたので合わせて13,000円。寮費は三食食べて5〜6,000円。本も買えたし貯金もでき、年3回山形へ帰る交通費もまかなえた。大学に払う学費は年間12,000円。前、後期6,000円ずつ、これだけは仕送りしてもらいました。高校がたしか1,890円の記憶なので、高校よりも安かった。そんなわけで「勝手に生きてる」感が強かった。
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1969.3.19 [当時の「記録」]
《思想的に生きる》という言葉が出てきて、どういうことかと思い、後に《「思想」とは、「個人的人間関係を超えた社会的関係までも含めた中での自己の位置選択である」》(「思想」についてhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-22)と書いていたのを見つけ出したが、もう過去の遺物のように思える。そもそも「マルキシズムにどう関わるか」を基準に思想の如何が問わる時代があったのだ。私はその時代の雰囲気の中で、吉本の導きを得てマルキシズムのパラダイムから逃れ、「自立」を自己の「思想」の柱とする時代思潮に身を置いた。しかしいつしかそれも風化して、今や「あなたにとって『思想』とは?」と問う事自体がもう意味がなくなっている。数日前「今の若い人は議論なんてしない」と書いたが(市長に語ったことhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-16)、あらためて時代の変化を思う。
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1969.3.16〜3.17 [当時の「記録」]
独り相撲のクライマックスと言っていい電報事件。実家で受け取った橋本さんも迷惑だったろう。でもすぐ電話をくれた。どんな服装でいたかも含めて、寮の管理人室の電話で話す自分の姿を今でも思い浮かべることができる。その前の晩、いちばん何でも言える友人だった森本、二宮と、わけがわからなくなるまで飲んでいた。橋本さんのこともこの時初めて語ったのかもしれない。電報事件はよく覚えているが、このたび書くまで前の晩の記憶はなかった。まだ酒醒めやらぬ翌朝の出来事だったのだ。酒の勢いか。橋本さんに会うことがあって思い出話をすることを許してもらえるなら、この時のことから話すことになるだろう。覚えていてくれたかどうか。
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1969.3.15 [当時の「記録」]
後にこのころの状況をふりかえり、こう記述している。≪男女間のいわゆる〈愛〉とは、全的に〈私〉でありつつ、全的な〈他者〉として、相互に心的関係を結ぼうとするところに、その本質的志向があると考えられる。しかし〈片想い〉は、一方にその志向が働いているにもかかわらず、他の一方にはそれがない。すなわち、〈私〉は〈他者〉の存在全てを、〈私〉と同価のものとして〈私〉にとってあらしめようとするにもかかわらず、その〈他者〉は、〈私〉にその全てを開いてくれようともしないし、〈私〉を自らのうちに取り込もうともしない。≫(「メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」 第二章 第四節 「〈他我〉としての他者」)この状況の中での七転八倒。またこうも書く。≪実らぬままの〈片想い〉の虚しさは、共に生きようとして生き得ず、〈他者〉を勝手に自分のうちにでっちあげるか、代償の得られぬままに、私にとっての私を他者にまるっきり委ねてしまうというところにある。その空虚さを救ってくれるものがあるとすれば、そればナルシシズムだけである。≫(〃) すなわち、七転八倒の中にチラリと見出す「ナルシシズム」の影、それがまた「苦しみ」に拍車をかけるが、そこでまた救われる。そのいたちごっこの無間地獄。次章でこうも書いていた。≪われわれは、〈対自〉としての私が他者の中で生きてゆこうとする時、その私が他者からはわからないということへの不安あるいは不満がある一方、逆に、他者が誰にもわからないつもりの〈対自〉としての私に侵入してきたと自覚される時、また別の切実さをもって、他者が問題になる。太宰治の『人間失格』は、その問題において切実である。主人公は、〈対自〉としての私と〈対他〉としての私の裂け目で苦悩する。われわれはそこに、掛け値のない〈やさしさ〉を、しかしまたその一方で、鼻持ちならない〈傲慢さ〉を見出す。そしておそらく、〈やさしさ〉と〈傲慢さ〉とは、自らに〈やさしさ〉を自覚した時、傲慢であり、自らに〈傲慢さ〉を自覚した時、やさしい。そこに果てしのない、それゆえどこかでふんぎりをつけて開き直らねば生きてゆけない、人間存在のもつ苦悩がある。そしてその果てしのない苦悩を強いるものこそが、人間存在の根源にある〈倫理性〉というべきなのかもしれない≫(「メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」 第三章 第三節「根源の倫理性」)。 このころの体験あってのこととあらためて気付かされた。
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1969.3.14 [当時の「記録」]
3月14日、1日に書いた量としてはいちばん多いかもしれない。橋本さんと映画に行った、私にとっては実にかけがえのない日のはずだった。しかし後で考えると、私の「一生懸命さ」に対するせめてのご褒美だったのかもしれないと思う。書き写しながら、あらためて橋本さんとの距離感を思わされた。ただ、この時々の体験が、メルロー・ポンティ理解につながっている。
2年後卒論として提出した「メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」、その「第三章 われわれにとってのメルロー・ポンティ哲学と他者の問題」は、《そもそも、メルロー・ポンティ哲学において他者が問題であるがゆえに、われわれにとって他者が問題なのではなく、われわれにとって他者が問題であるがゆえに、メルロー・ポンティ哲学で他者が問題なのである。》として、「第一節 『御前他(ひと)の心が解るかい』」「第二節 私でありつつ私でない私」「第三節 根源の倫理性」と題して書いたが、橋本さん体験があっての問題設定だったことが、いま書き写しつつよくわかる。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21
今ざっと読みかえしたら、「第二章 メルロー・ポンティ哲学における他者の問題」の「第四節 〈他我〉としての他者」に橋本さん体験がそのまま記述総括されていた。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21
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