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1969.3.19 [当時の「記録」]

《思想的に生きる》という言葉が出てきて、どういうことかと思い、後に《「思想」とは、「個人的人間関係を超えた社会的関係までも含めた中での自己の位置選択である」》(「思想」についてhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-22と書いていたのを見つけ出したが、もう過去の遺物のように思える。そもそも「マルキシズムにどう関わるか」を基準に思想の如何が問わる時代があったのだ。私はその時代の雰囲気の中で、吉本の導きを得てマルキシズムのパラダイムから逃れ、「自立」を自己の「思想」の柱とする時代思潮に身を置いた。しかしいつしかそれも風化して、今や「あなたにとって『思想』とは?」と問う事自体がもう意味がなくなっている。数日前「今の若い人は議論なんてしない」と書いたが(市長に語ったことhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-16、あらためて時代の変化を思う。
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3/19 0:10am
なんか、いろいろな事考えてしまって本よんでも全然頭に入らず。 自然にまかすか!?
男と男のつきあい? 森本と大本君と二宮と。 なんかおれの居場所がない感じ。 ひとりでおる方が気楽。 傲慢になってるのだろうか。

もう、おれ、橋本さんなしではおれの未来ってものが考えられなくなっている。ほんとに正直なところ。 橋本さんとなら一緒に、今の考え方でやっていける感じ。 なんか、こういう事書くの照れ臭い感じだけど。
”暮しの手帖”のある家庭、か。

自立!!

あらゆる意味でうまくゆきすぎているっていう感じがしないでもない。 例の、不幸への予感?
闘う姿勢をゆるめた時、不幸は襲ってくる。闘いはこれからなのだ。

1:00am
"二人の相違う性が、相寄って長い歳月を歩むということは、そんなに美しくもなく愉しくもなく、又そんなに醜いことでもない。平凡なことだ。そして平凡な嫌悪をしずかに耐えてゆかなくてはならないのだ。”(吉本)
1:40pm
西村さん、久しぶりに来てゆく。もう大学中退で家へ帰るそうな。夢の時代はおわりぬ、って感じ。
おれ、一年の時に比べて落ち着きがでてきたけど、子供っぽいところはそのままとの事。 おれはこれからどう変わるか。西村さん、関係の中でのみ生きてきたって感じ。

人はみんななにかを信じて生きてゆくものさ。信じていたものが信じられなくなった時こそ悲劇。  おれが信じているもの、いや、生きている限り信ぜざるをえないものとしてあるもの、それは、現実ってもの。 おれにとって、現実による裏切り、すなわち”不幸”ってもの、つまり、おれの力でどうしようもないもの、それのみが悲劇。
関係の中に自己をおく限り、自己は無限に拡大せざるを得なくなる。そして、無限は虚無に等しい。 すなわち、徹底すればニヒリズム、徹底しなければ中途半端。 そして、多くの人は、中途半端である。 そしてまた、”生きてゆく”には、中途半端が正常である。 勿論、正常とは多数を占めるものである、という意味において。

10:30pm
おれは、この正常な判断がもうできなくなっているのかもしれぬ。 そっちの方、橋本さんに頼む、か!?  なんか、こんなこといって大丈夫なんか? それにしても、おれひとりでいると、やっぱり、気が狂う他ないのかもしれぬ。どうしようもないところまできてるのかもしれぬ。

真に永続的な愛を保とうとするならば、常に、その結合は”離れうる”という可能性をその契機として持たねばならぬ。それがあればこそ、”離れたくない”という愛の愛たる契機が維持されてゆくのだ。 そこから必然的に”発展”も生まれる。その意味で愛が愛であるためには静止してはならぬ。たえざる運動の中にのみある。 夫婦にとって何故子供が必要か、といえば、その愛が、結婚という枠で縛られることにより、”離れうる”という可能性が著しく減少し、その代償として”かすがい”としての子供が必要となるわけだ!! (ちょっといいすぎ?)

理論の先走りは現実の生活を崩壊へ導く。思想的に生きる、という場合、この辺のかねあいが大変だし、これに失敗すれば、その思想も、現実には空虚なものといわざるをえない。

おれにとって、おれの内的必然性に従う限り、自立の道しかありえないから、自立の道を歩もうとしているのだ!!

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