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1969.6.11 [当時の「記録」]

昭和43年(1968)10月25日まで共に過ごしたノート「記録 No.3」の最後です。昭和44年(1969)1月21日《昨日の学生大会で、スト権確立との事》からはじまりました。数えたら大学ノート72頁分です。6月11日現在、大学は混乱状態の真只中です。

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6/11 2:15pm
東京へ行って今帰る。
東京って処は実際イライラする所だ。新幹線を新大阪で降りて国電に乗り、大阪の雰囲気に入った途端、不思議とイライラもすっとんで”やったるで!!”といった気持になる。東京はおれの住む所じゃない、っていう感を増々強めてきた。一々腹が立つ。なんということなしに腹立たしいのだ。物価は高いし。

もうすっかり岡山の雰囲気になりこんでしまっている。汽車の中で考えてることなどいろいろあったはずなのに。
往復共に新幹線利用。

9:25pm
何かを為さねばならぬ。しかし、何もできない。さほど焦りもなし。書くことができれば、と思うのだが。
大阪という不思議な街が、東京で感じたどうしようもない疎外感とでもいうものをすっかり回復させてくれた。
しかし、あの空虚がいつまた戻ってこないという保障はないのだ。あの空虚、倦怠、疎外感はすっかり定着しきっちた筈なのに、また中途半端な形で逆戻りなのだろうか。絶対に、この逆戻りは大丈夫なものではないのだ。

今日の学生大会は、結局継続審議ということになって、明日またあるそうだ。行動を一貫させようとするならば、おれは出てゆく必要はない。しかし、おれそのものとしては、以前のおれではなくなってしまっているはずだ。その辺がまだ明確に把みきれていない様だ。ずるずるべったりの感覚。
ただひたすら自分の生活を求めようとすることで、その辺を曖昧にしてしまっている。それならそれでいい。しかし、根本的には、たいした変わっておりもせず、いやな部分が見えなくなってしまっているだけなのだ。自分自身が見えなくなっている。

何故、このノートにいろいろ書こうとするのか。生活のみを求めるならば、このノートは最早必要ないはずなのだ。
生活のみを求めるにはあまりに余裕が多すぎる。
生活のみならどこにでもおれにはころがっている。家での生活意識と寮での生活意識のギャップ。ここにこそ、良くも悪くもおれ自身の特殊性があるし、このギャップの明確な把握なくして、これからの明確な方向も見出しえない。

結局、センチメンタリズムとしかいいようがないのかもしれぬし、あるいはここから現代的な、そして普遍的ななにがしかの問題点を抽出しうるかもしれぬ。おれにとっていつかはぶつからざるを得ぬ問題であることはたしかだ。
ここを曖昧にして進むということは、ずるずるべったりでしかありえない。

下降意思のゆきつく果て。自己否定のゆきつく果て。

未来への賭け。しかし、そうすることによって未来がその人により大きな利益をもたらすというのか!?
未来を俟つ方法はそれのみではないはず?
所詮、ストイシズムでしかありえぬ。ストイシズムはどこかに欺瞞の匂いをただよわせているものだ。宗教的亡者でない限り。
欺瞞は欺瞞の故に悪なのではない。無理が悪なのだ。

思いつくまま書き連ねる。沈黙にまさる真実はないというのに。真実「のため」書いているのではない。書くことによって、おれの内部が世界と繋がる。おれにとって、それはまだ、内部からの衝動というより、内なる「世界」からの強制である面の方が強い。それの方が大部分かもしれぬ。それゆえ、常に書くということに不自然ななにか、ちょっとした「ためらい」を感じる。生きるため、と思いつつかく。

おれの内部? そんなものあるんだろうか、とも思う。橋本さんがいた時はたしかにあったはずなのだ。

今の世界に、恋愛の他に自分の内部のすべてを何の疑念もなく賭けるものなんてありはしない?

橋本さんに手紙を書こうと思っては、くだらない、と思い、また書こうと思っては、くだらないと思う。
結局、書けばいいのだ。こんど宿直室で書こうと思う。
とにかく、おれにとって真の意味で”女”といえば、今のところ(いまだに)橋本さんしか考えられない状態なのだから。

東京では生きてゆけない、大阪では結構生きていける、そういう感じ。何に由来するのか。

大阪は解放されている。東京は自分で自分を縛りつける。しかし同じ日本。東京が大阪に近付くか、大阪が東京に近づくか。東京は消費が中心、大阪は生産が中心、ということだろうか。
無駄な消費の氾濫。そして、資本主義の末期症状としての”奇”を求める傾向。現代における奇は超画一の奇でしかない。それゆえ、その奇は、すぐ画一化されてしまう性質をもつ。
そして、珍妙なるものの「流行」。現代のような閉塞した時代には、時代の先端には真実はない。深く深く自己に沈潜せよ。自然、ありのままを見つめよ。
”ほんとうのこととはあたりまえのことだ”という、ありったけあたりまえの言葉が重要な意味をもってくるのは、まさにこういう時代においてなのだ。

あー、やっとここまで書いた。さて、これでこのノートともお別れです。御苦労様。 6/11 10:16pm

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