1969.6.12〜6.13 [当時の「記録」]
表紙裏《弱者は時代に耐ええずに死ぬ、とうそぶく連中がいるかぎり、わたしたちはみずから死んではならないのだ。 吉本隆明》
INDEX《結局は「そこ」へゆくに決っている。だから僕は「そこ」へゆこうとする必要はないはずだ。「ここ」をいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。 (吉本)》
高橋和巳「わが解体」の『文芸』連載が始まった。心高まらせて読んだ記憶がある。自分にとっての高橋和巳が見える。『わが解体』の、星五つアマゾンレビュー、ぶんちょさんの感想、
6/12 0:30am
雨降り。
生きる、ということは具体的なこと。書く、ということも、単に考えるということからみればより具体的。具体的に書く、ということが今のおれには必要。なんか、くだらんことやってるのかもしれないけど。生きる、ということのための焦りから、いつのまにかくだらん幻想にとりつかれてしまっているのかもしれないけど。焦点が定まらぬこの頃。いつのまにか、現実の雰囲気に呑まれて押し流されてしまいかねないこの頃。いつかふと気付いた時には”とりかえしがつかない”ってことになりかねないこの頃。
混沌を見つめよ。生きる、ということはそもそも混沌。今までのおれはあまりに整理がつきすぎていたのかもしれぬ。現実の具体的なものがあるまえに、抽象的な枠組があったのかもしれぬ。現実の混沌のまえに、枠がギタギタになっているのかもしれぬ。
整理された、枠にはまった現実の前に想像力は無用である。現実が枠にはまりきれなくなった時、想像力の活動は始まる。
何か焦点があればいい。
このごろは、本心では、早く講義が始まればいい、という気持だ。無節操といえば無節操。そうかといって、それを無節操とたしなめるのは、自分の内部そのもの、というより、外への気兼ね、という色合いが濃い。
これでいいのか。所詮、こんなものにすぎなかったのだろうか。こうして徐々に、生きるということの混沌へと入り込んでゆくのだろうか。そして、いつか、とりかえしがつかなくなっているのだろうか。
おれが、おれとしてなしうることは一体何なのか。「おれがおれとしてなしうること。」
深さを、あるものの、焦点を定めたものの深さを!! おそらくそれが欠けている。
6/13 3:10pm
立て直しを図って、夕べ洗濯と部屋の整理、清掃。今朝起きて気持がいい。
心の緊張を。ずるずるべったりはずるずるべったりなりに明確に総括せねばならない。
高橋和巳の”わが解体”を読む。文章をそのまま読んだ時、それをひとつの作品としてみた時、たしかに感激しうる。しかし、それを書く高橋和巳自身とその文の関わり、すなわち、彼に”何故書くか”の問いを発した時、文を作品として読んだ時の感激が、なにかしら、ちょっと滑稽味を帯びてくる。高橋和巳がこの文を書いていることを考えた時の滑稽さだ。高橋和巳は、これにどう答えるだろうか?
蔦宗さんが来られて一時間ほど話していかれる。
おれはもうだめになったのか? 外に出ることはできないのか。外に出るとは? 政治! 政治とは無縁になってしまったのか。今の様な緊張感のないずるずるべったりのままでは、そうにちがいない。緊張を!! どこにその緊張しうるものを見出すかだ。
高橋和巳は、この闘争で、彼の最も中心部分を外に出さざるを得ない形で問われている。いや、彼がその中心部分を外に出すことをこれまで生活の中心としてきたゆえ、彼の全存在がこの闘争にかけられねばならないのだ。
おれは、緊張した「状況」をとおりこしたら、内部には何も緊張がなくなる。おれの今までの生活に緊張がないものゆえ。ここをどうするかだ。
雨降り。
生きる、ということは具体的なこと。書く、ということも、単に考えるということからみればより具体的。具体的に書く、ということが今のおれには必要。なんか、くだらんことやってるのかもしれないけど。生きる、ということのための焦りから、いつのまにかくだらん幻想にとりつかれてしまっているのかもしれないけど。焦点が定まらぬこの頃。いつのまにか、現実の雰囲気に呑まれて押し流されてしまいかねないこの頃。いつかふと気付いた時には”とりかえしがつかない”ってことになりかねないこの頃。
混沌を見つめよ。生きる、ということはそもそも混沌。今までのおれはあまりに整理がつきすぎていたのかもしれぬ。現実の具体的なものがあるまえに、抽象的な枠組があったのかもしれぬ。現実の混沌のまえに、枠がギタギタになっているのかもしれぬ。
整理された、枠にはまった現実の前に想像力は無用である。現実が枠にはまりきれなくなった時、想像力の活動は始まる。
何か焦点があればいい。
このごろは、本心では、早く講義が始まればいい、という気持だ。無節操といえば無節操。そうかといって、それを無節操とたしなめるのは、自分の内部そのもの、というより、外への気兼ね、という色合いが濃い。
これでいいのか。所詮、こんなものにすぎなかったのだろうか。こうして徐々に、生きるということの混沌へと入り込んでゆくのだろうか。そして、いつか、とりかえしがつかなくなっているのだろうか。
おれが、おれとしてなしうることは一体何なのか。「おれがおれとしてなしうること。」
深さを、あるものの、焦点を定めたものの深さを!! おそらくそれが欠けている。
6/13 3:10pm
立て直しを図って、夕べ洗濯と部屋の整理、清掃。今朝起きて気持がいい。
心の緊張を。ずるずるべったりはずるずるべったりなりに明確に総括せねばならない。
高橋和巳の”わが解体”を読む。文章をそのまま読んだ時、それをひとつの作品としてみた時、たしかに感激しうる。しかし、それを書く高橋和巳自身とその文の関わり、すなわち、彼に”何故書くか”の問いを発した時、文を作品として読んだ時の感激が、なにかしら、ちょっと滑稽味を帯びてくる。高橋和巳がこの文を書いていることを考えた時の滑稽さだ。高橋和巳は、これにどう答えるだろうか?
蔦宗さんが来られて一時間ほど話していかれる。
おれはもうだめになったのか? 外に出ることはできないのか。外に出るとは? 政治! 政治とは無縁になってしまったのか。今の様な緊張感のないずるずるべったりのままでは、そうにちがいない。緊張を!! どこにその緊張しうるものを見出すかだ。
高橋和巳は、この闘争で、彼の最も中心部分を外に出さざるを得ない形で問われている。いや、彼がその中心部分を外に出すことをこれまで生活の中心としてきたゆえ、彼の全存在がこの闘争にかけられねばならないのだ。
おれは、緊張した「状況」をとおりこしたら、内部には何も緊張がなくなる。おれの今までの生活に緊張がないものゆえ。ここをどうするかだ。
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