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1969.4.23 [当時の「記録」]

新たな根源的な問い》、何があったのだろうか。「美」とはひたすらpureであることか。

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1969.4.21〜4.23 [当時の「記録」]

好漢「熊野」の名前が懐かしい。《”寮の自治”というのは、民青に代表されるもの、”団体生活”というのはクマノに代表されるもの。この二つの幻想を打ちやぶって、個人主義に徹する他ない!!》と書いているが、「寮」として「クマノ感覚」は最もまっとうなものだった、と今は言える。サッカー部だった熊野、高松市の総務部長等を歴任して退職後カマタマーレ讃岐」の社長になっている。

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1969.4.18〜4.20 [当時の「記録」]

前回、鮎川信夫の『吉本隆明論』とあったので探しているうちに、秋山駿の「病者の親友」という文章にゆき当たった(『吉本隆明と〈現在〉』(現代詩手帖1986.12))。吉本にすがる「病者」の群れについていう。《彼ら病者とは、まず自分自身と格闘しなければならなくなったために、社会的生活への配慮に回す力を、奪われた者達である。彼等が自分自身と格闘するその急所のところに、吉本隆明の言葉が出現する。》その通り! さらに続く。《これはどういうことか? 病者は自分自身と格闘している者である。なぜ格闘するのか。彼等が自分の生に「気品」といったものをもとめているからだ(と私は思う)。気品とは、ありもしないもの謂で、それは現実生活と対立し、矛盾する。矛盾の中で、彼等はもがき苦しむ。苦しんで伸ばした手の掴むものが、吉本隆明の言葉だったとは。こういう光景こそ、人間のもっとも貴重な部分である。その光景の確かな一端にいることが、吉本氏の光栄である。それ以外のことは、すべて無用である。》ここを素直に(皮肉あるいは嗜虐としてでなく)受け取れば、この頃の「私」は、「人間のもっとも貴重な光景」を生きていたことになる?《無用のお断わりをしておく。病者は単純な者ではない。むしろ、われわれより複雑な者である。私は彼等が生に求めるものを、単純化して、気品と言ったが、彼等自身の言葉に従えば、それは「思想」なのである。彼等が吉本さんに見出しているのは「思想」なのだと思う。》当時の私にとっての「思想」を言い当てている。

もうひとつ、つぎに読んだのがその前にあった内村剛介「”下等な真理・高等な欺瞞”」。《吉本は倫理の次元において革命を求める。ひとりびとりに革命を求めるのだ。彼は抑圧を生まぬ人間関係を求め、革命を人間存在そのものの次元で求める。自他に抑圧なき存在を求めるのである。これは自立した人間を求めるということであろう。》これにも納得、「自立」へのこだわり。「自立」とは「自他共に抑圧なき存在」たること。そしてその先まで言い当てている。《ところでまさにここで吉本は苛酷になる。自立しえない存在にもあえて自立を求めるからである。そもそもひとはついに自立しえない存在であるのかも知れないではないか。このことをあえて無視して進もうとするのが吉本の倫理であるとすれば、大衆の根にあるこの倫理は、ないものねだりの吉本倫理に逆らい、逆に吉本倫理に解体を迫るものとなるだろう。「大衆の原像」が吉本自身に向って反逆するという図である。》「吉本倫理」をもろに引き受けてきた私自身が、まさに「解体」を迫られることになっていた。ちょうどこの時のことだった。よくもまあ今ここで、秋山・内村論考に出会ったものだと、感銘を深くする。当時の自分を見事に時代の構図の中に収めることができた。

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1969.4.17〜4.18 [当時の「記録」]

大学からのスピンアウトを考えていた。それしかないと思うようになっていた。この日、それを決行した。2回生の夏休み、釜が崎で拾ってもらって10日間飯場暮らしをしたことがあった。その体験が大阪に向かわせた。東大阪市の職安だったのだろうか、そこの紹介で小さな鉄工所に行って社長と面接して気に入ってもらえたのだった。そして話はとんとんと進んだ。ひとりになって不安が襲ってきた。

迷惑をかけることになったが、それ以後の日々のために超えねばならない峰だった。この時の胸中、今もわかってせつなく思う。

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1969.4.15〜4.16 [当時の「記録」]

ずっと考え続けてきたことを実行に移す決意を固め行動を起こすその前夜。

大学は大学で緊張の極みだった。そんな中で、団は団で己れの人生を語り、林は林で思いあぐねて訪ねてきた。二人とも不器用だがその分、真面目すぎるほど真面目だった。団は四十代にさしかかった頃だろうか、山形までやってきて何日か滞在していったことがある。あちこちひとりで歩きまわっては将棋の相手を探して退屈することもなくここで過ごしていった。学生時代のままの団だった。その後の消息はわからない。風のようにやってきて風のように去っていった。林のことは1969.3.7〜3.8で書いていた。和歌山人らしい早口なのに「訥々(とつとつ)」の印象だ。いい先生になってくれていたらいい。

橋本さんからのハガキにどんな返事を書いたのか。合同委員会の頃の橋本さんとの関係に戻っていたんだと思う。やりとりがもっと続いて欲しいと思ったに違いないが、橋本さんは橋本さんで新しい世界(小学校の先生)でいっぱいいっぱいだったろう。たしかそれっきりだった。

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1969.4.12(承前) [当時の「記録」]

「岡大学生運動史」というサイトを見つけた。中に、岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17> の章があり、わたしのすぐ外側で起きていた事ごとが「闘争」サイドから詳細に記されている。4月12日、学生が上から落とした石に当たった警官がひとり亡くなった。一連の動き、私には「紛争」でしかなかったが、その中で死者が出たことは重かった。そのことによって、その後何人かの身近な友人たちにも「徒労」としか言いようのない事態がふりかかることになる。
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<学内機動隊導入,反動赤木学長退官>
 4月12日未明,現場検証の名目で,機動隊500が学内に導入された。午前3時頃から情報を聞きつけた200名の学友が続々と構内に結集し,東西道路をバリケード封鎖する。5時半すぎ,姿をあらわした機動隊は学友の「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールと激しい投石の中,30分ほどかかってバリケードを破壊し,学内に乱入した。キャンパスに集った600名の学友が抗議のデモ,すわり込み,投石を行って対抗したが,不当にも機動隊は全共閾議長小山君を初めとする3名の学友を逮捕し去り,学生に無差別的に警棒を下し,多くの学友にケガを負わせて,学生会館,学生部,法文新館,教養部に乱入し,8時半すぎまで強制捜査が行れた。午前9時から全共闘は学館前にて川代学生課長の責任追及集会を大衆的に行った。この中で学生課長は告発文書にある「暴行行為」がなかった事を認めた。この集会に対し大学当局は機動隊導入を要請,午前11時頃450の機動隊が学内に再度乱入し,学友に襲いかかり,学館前を完全に「占拠」したが,学友300名の激しい投石の中を正午すぎ退散した。この後学友はただちに正門前バリケードを再構築した。
 一方,この日の闘いは反革命軍団−機動隊員有本の死をもたらした。権力,大学当局は警官一名の死を最大限利用して,全共闘圧殺=岡大の圧殺をもくろんだ。
 4・l2以後,全共闘に対し「暴力学生,殺人者集団」のキャンペーンが大々的にはられ,当局は「全共闘は暴力集団」として一切話し合いに応ぜず,逃亡を続ける。学生の中には有本の死に一定の動揺はあったものの,全体的に再度の機動隊導入を許さない声が高まる。
 4月l9日,教養部萩原教官声明「既成の大学共同体につながる職務形態を一切拒否,知識の大衆管理化を要求」4月20日,同坂本教官声明「教養部教官会議が自己批判しない限り,会議出席を拒否」が出される。
 この頃から大学当局は一方的全学集会を画策する。これに対し医・法文・教養教官有志8名が執行部の自己批判,辞任を要求し,全学集会拒否の声明を出し,全共闘,ノンセクト連合も実力粉砕に向けての闘いを構築していく。4月26日には全学集会粉砕総決起集会が克ち取られた。
 4月27日正午頃,全学集会の会場である岡大附小・中前に結集した学友l00名は教職員の検問を突破して会場に突入し,演壇を占拠して学長弾劾集会を開いた。午後2時頃には学友,教職員の数は4,000名に達し,全共闘は,右翼と一体となった民青の闘争妨害をはねのけ,ついに4時l5分,閉会宣言を勝ち取り,全学集会は流れた。
 全学集会策動を徹底的に粉砕された赤木は全学ロックアウト,という強行路線による岡大闘争の全面的破壊,「正常化」を行うとしたが,さすがに評議会を通らず,孤立し切って退官−逃亡を表明する。これに代って登場したのが「話し合い路線」をかかげつつ,機動隊導入をくり返す谷口学長代行である。
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こうした動きはずーっと痕を引いて、1975年には寮を舞台にした学生同士の衝突で、寮生に死者が出る事件も起きている。慚愧である。(「マル青同」寮襲撃 大沢真君虐殺 <1975・5・25>
当時の記録に「極限」の語がしばしば出るが、たしかにそれを思わせる「情況」の下で生きていたのだろう。自ら「戦中派」を名乗る所以である。
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1969.4.11〜4.12 [当時の「記録」]

いろんなことが合わさって夢を見た。「今がその時なのだ」というリアルな僥倖の感覚があった。白頭山(長白山)神事で山頂に在った時の感覚に似ていた。現にそこに在って、揺るぎなく厳としていた。目覚めて、決意が芽生えた。この先どうなるかはわからない。

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1969.4.7〜4.11 [当時の「記録」]

北津寮1.jpg軍の被服廠だったという旧寮で2年、新々寮で1年過ごした後、3年間二人部屋だったが、4回生になって個室の新寮に移った。1986年(昭和61年)発行の『岡山大学学生寮記念寮誌』に、懐かしい絵や写真があった。左は寮の中央広場から見た旧寮、管理人室、集会室。私の頃は自転車小屋はなかったような気がする。下の4枚、左上が食堂。右上が新々寮集会室。合同委員会はいつもここだった。橋本さんが何の時だったか、この部屋で「トンボのメガネ」を歌ってくれたことがある。40数年前、中国旅行に行く機会があって、たしか西安で安西愛子参院議員の一行と一緒になり、どういうわけか食事の席で安西さんと隣り合わせ、異国ゆえの開放感もあって話が弾み、「うたのおばさん」から囁くように「トンボのメガネ」を歌ってもらったことがある。いま新々寮集会室で思い出したぜいたくな思い出だ。左下は新々寮(手前)と新寮。西側から。右下は旧寮。東側からだろう。どれもこれも胸苦しくなるほどの懐かしさ。

北津寮 7.jpg北津寮 6.jpg北津寮 4.jpg北津寮 2.jpg

4/11のことは何のことだったか思い出せない。金がらみのことで何があったのだろう。

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1969.4.5 [当時の「記録」]

愛のかたち1.jpg帰省してちょっと間があって、新しい段階に入ったことがうかがえる。「おれ」と「わたし」と「ぼく」という位相のちがい、吉本の「個人幻想」「共同幻想」「対幻想」に対応する。3/23の図とはこれ。→

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1969.3.25〜3.28 [当時の「記録」]

一段落して詩めいたものが出てきてる。詩は、一義的には、つくるものではなくて、生まれるものだ。そうしてできたものを「詩」というんだろう。

寮誌があった。一年ごとに三寮合同でつくったものだ。橋本さんの名前がない。書いてないはずはない。橋本さん2回生の時の寮誌に、これだ!と思える三編の詩があった。ちょっと辛いが、敬意を込めて二編を写す。ペンネームは「真木千里」。

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    憧 憬
 
 いつのまに
 それは
 習性となってしまったのか
 ひそやかに
 しのびこんできては
 はたと困らせる
 あなたへの憧憬
 「あい」するというその思いを
 ふと
 わたし自身に確かめてみるとき
 それはたちまち
 形をかえて
 限りない不安となってくる
 「積極的に生きること」

 わたしにはまだ遠い
 けれども
 そのたしかな思想の次元にいる
 そして
 みずからきびしさを強いる
 あなたへの憧憬
 泣いていたいような
 よわいわたしの「あい」のなかへ
 あなたの
 「積極的に」が
 どんなにきびしいものか
 わたしにもそれがほしい
 ほしくてならないのだけれど



    土曜日

 雨はわたしのお兄さま
 初夏にふる
 美しく暖いその雨が
 しっとりとした空気の中を
 やさしく飛びやさしく逃げる
 
 野いばらのしずくで潤った唇を
 雨はわたしの口もとに近づけ
 ほゝえむかと思えば
 いつもの指先で
 一度にわたしの体中にさわってみる

 しなやかにたわんだ小枝の上に
 花もおどれ
 鳥もうたえ
 雨はすべてを聖めてくれるだろう
 
 涼しい
 うの花がこぼれるあたりに
 「朝」から夕暮れにかけて 
 雨はふる
 ふりしきるばかりに
 雨はふる

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「土曜日」はなまめかしく読んでしまったんだけど、橋本さん、それでいいですか? 
《結局、おれ、根本的なところで橋本さんに最初から敗けてたんじゃあなかろうかって思う。おれが橋本さんに対する様な恋愛は、橋本さんはすでに経験ずみだったってこと。》

3/28の「善意」についての出来事は、何のことか思い出せない。

このあと、帰省。4/5、寮に戻るまで『記録』は空白。

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