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1969.4.11〜4.12 [当時の「記録」]

いろんなことが合わさって夢を見た。「今がその時なのだ」というリアルな僥倖の感覚があった。白頭山(長白山)神事で山頂に在った時の感覚に似ていた。現にそこに在って、揺るぎなく厳としていた。目覚めて、決意が芽生えた。この先どうなるかはわからない。

*    *    *    *    *

1:15pm
「カラマーゾフ・・・」読みつつ、
ゾシマ長老が、俗世間と修道院の関係について述べている。修道院に居る者は、俗世間に居るひとりひとりに対して責任を持たねばならない、と。これ、社会と大学との関係についても「理念として」そのままあてはまりそうな気がする。そして、おれは、俗世間にいるひとりひとりに対する責任、ということを拒否して、すべて、おれ自身の問題にしてしまった時から、理念的に大学に居ることができなくなったのだ。しかし、現代にあっては、おれの立場はおれの立場で時代的必然性がある。すなわち、ゾシマ長老の時代にあっては、社会をおおう理念としてのキリスト教が価値を持っていたわけで、それに修道院という社会から疎外された場でつかえることで、俗世間のひとりひとりに対して責任を果たしうる、という風に考えられていた。それに対して現代にあっては、社会をおおう理念は何らないわけで、それゆえ、社会から疎外された大学にあってはそれを求めることができない。そうしたものは、個人個人が社会の中に生きることによって求めてゆく他はないのだ。

4:30pm?
石川さんが行くというので一緒に職安に来てみる。職安で別れて今喫茶店で。
高卒と大学卒で大体、給料に五千円の差があるってこと。これはおれの内部でどの様に解決せられていたのか。あるいは解決せられないとしたら、どういう風にして解決すればいいのか。
こんなことはわかりきっていたことのようにも思えるし、あるいは全然意識に上らなかったことのようにも思える。要するに最も現実的な問題として、この五千円をふりきりうるかどうか、ということがあるように思える。この五千円が、おれの未来にとって、どのように作用しうるか、ってことだ。
この五千円と、おれの考え、やろうとしていることをはかりにかけなければならないのかもしれぬ。

5:30pm
寮に帰って、
未来を思想的に先取りしようとする者にとって、現実とは常にこういうあらわれ方をするのかもしれぬ。つまり、「こんなことはわかりきっていたことのようにも思えるし、あるいは全然意識に上らなかったことのようにも思える」と。
そして、「現実」は、”なぜおまえは思想的に未来を先取りしようとするのか”という、痛烈な、己れの存在を根底から揺さぶる問いを発する。その問いは、己れの傲慢さを思いっきり突いてくるのだ。そして、己れの傲慢さを指摘することにより「不安」へと導いてゆく。不安は、それをもたらす傲慢さでさらにおおいかくすか、あるいは己れを現実に密着させることによって解消せねばならない。おれは前者を選ぼうとしている。おれはまだ人生に賭ける若さを持っている、といっていい筈なのだ。
若さとは傲慢さだ。そして、おれの課題は、この傲慢さを如何にして実体化してゆくか、ということにあるのだ。

実体化とは? まさにおれが未来を先取りしたと思っていることが、真実未来を先取りしていることなのだ。  未来に賭ける、か。

10:30pm
工藤よ。お前の自分を他人の前に卑下するさらにそのうしろにあるナルシズムを否定することがまず第一にやるべきことだな。徹底的な自己否定。しかる後にそこから這いあがる時、つまり自分を取り戻す過程で、恋愛なんかが必要になるのかもしれないね。

4/12 1:45pm
「カラマーゾフ・・・」読みつつ、
”大審問官”の章、
老審問官曰く、
”元来人間なるものは反逆的存在として創りあげられているんだが、はたして反逆者が幸福になりうるだろうか”
○この章にあってキリストは、個人的善悪の象徴としてある。しかし、キリストの死後のキリスト教の隆盛は、個人的善悪にとどまることによってありえたのではない。善意が、自分にとっての自分における意志をはみ出て、それを一般的なものとして世の中に拡げようとした時から、キリストの善意そのままではなくなってしまったのだ。宗教の持つ宿命!?
○反逆的存在として生きようとする者の拠り所はどこに求むべきか。宿命?
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」?
世における幸福とは、精神的なところにその拠り所をおくのではない? →”怖ろしくてしかも聖なる精霊”としての悪魔の必要。
反逆的存在の幸福は、精神的なところにその拠り所をおく?
「現実の危機ということはそのまま精神の危機ということではない」!!

善意としてのキリストの存在が必要とされる時は、現実の危機に直面した時。現実の危機とは、肉体的危機?
肉体的危機のないところではキリストは不要か?
人間関係の地獄性は、根本的に何に由来するのだろうか。吉本の「個人幻想は共同幻想と逆立する」(”この地上にあっては、自由とパンとがだれにとっても両立しがたいものだ”)という命題の根本的な原因は何に由来するのか?
愛のかたち5.jpgは可能か? 愛のかたち5.jpghttps://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-02-02-1


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