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1969.5.16〜5.17 [当時の「記録」]

全共闘の側で書かれた「岡大学生運動史」より。《5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。/ この大管法恫喝の中,谷口体制の下,右翼と一体となった民青,秩序派による封鎖解除,スト破壊という反革命闘争圧殺と全共闘との激しい闘いが展開される。/ 5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。/ 一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。》岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17>)

日本共産党は大学に深く根を張っていた。したがってその青年組織である民青は「大学の秩序」の側にあるのは必然。本来相容れないはずの日本共産党と右翼はともに、全共闘からみれば「秩序の側」だった。民青の人たちはわたしの周り多かったが、おしなべて上昇志向の印象が強い。まさに全共闘にとってはターゲットそのものだった。右翼はといえば、あるいは空手のHさん(2級上)がそうだったかもしれない、と思うぐらいで、私の周りにはほとんど全くいなかった、というか私の視野には入ってこない存在だった。今になって思えば「右翼」は真っ当な存在だった。その頃、「生長の家」系をバックにがんばっていたのが、新潟大学の伊藤哲夫氏や大分大学の衛藤晟一氏。伊藤氏から当時の奮闘ぶりを聞いたことがある。いまや共に安倍首相の最側近。二人とも私と同年。

創立50周年記念事業委員会による『岡山大学50年小史』(平成11年 岡山大学)から転載。警官死亡事件を受けた文。事態の深刻さに大学側も学生側も驚愕し、問題の早期解決を目指す動きが一段と強まった。大学側も、学生側と徹底的に話し合い、事態を一挙に解決に持ち込もうとして、四月二十七日全学集会を計画した。大学側としても、学生の主張に出来るだけ耳を傾け、可能な改革は速やかに実行し、不可能なことははっきり不可能だとして学生の理解を求めようとしたのである。/ 全共闘側の紛糾作戦を阻止し、冷静で良識的な話し合いを確保するため、予備討論が重ねられ、会場も全共闘の妨害を警戒して、附属小学校校庭に設けられた。全学の教職員が、集会の成功を目指して、 附属小学校に結集した。/ だが、結果は無惨だった。 怒号するマイク、荒れる全共闘のデモ。騒然たる状況の中で、赤木学長の苦心の呼びかけもかき消されてしまった。なおも語りかけょうとする学長を目掛けて、デモ隊が襲いかかる。学長の訴えは、一〇数分で中止するほかない状況となった。全共闘の妨害によって、大学側と学生側との苦心の学生集会は、混乱のうちに流会となった。五月三日、赤木学長は辞任し、谷口事務取扱がこれに交代する。この時期、 大学倒としては、一方で、 学生の暴力事件については、 告発しつつも、学内の封鎖やストについては、 なおも学生側との話し合いの姿勢を崩さず、 機会を窺っていた。/ 五月十二日頃、 スト解除の動きとそれに反発する全共闘の動きとが、 激しく入り乱れ、全共闘側は、再封鎖の態勢を固めた。この間全共闘側と教職員との間に小競り合いが発生し、教職員の何人かは負傷した。/ それが次の転機となった。大学側は、話し合いによる事態の解決には、かなり悲観的になっていき、次第に対決姿勢を固めていく。それがはっきり現れるのが、二十日の大学による学生の告発でありさらにその方向が明確になるのが、二十八日である。大学側は、警察に対して封鎖解除、バリケード撤去要請を行った。しかし、大学側はここでも、傷害·占拠·封鎮という暴力的な犯罪行為に関してだけ警察力の介入を要請しているのである。/ ストライキ状態は、すでに三か月続いている。新入生は、この年から始まった医学部薬学科を別として、一度も授業を受けていない。ストライキ状態について、大学側は、なお学生多数のスト支持の意思を一応推定して、それに手を着けることはしていないのである。/ 六月になると、十五日には、全共闘と、これを支援する外部の学生や労働者?が、一度撤去された南北道路のパリケードをコンクリートで固め、再封鎖した。十八日県警機動隊が、これを再び排除する。事態の打開に向けて有効な手が打たれることなく、バリケードの争奪合戦が続き、七月は空しく過ぎる。》(180p) 

あれからもう50年、今の大学からは想像もつかないのではないか。今思えば、300万人以上亡くなった敗戦から24年、まだ「戦後」だった。当時の緊張感を思うと、それなりに命がけだった、といえるかもしれない。あらためて、「われら戦中派」と思う。「はぐらめい」のHNはこのとき授かった。

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