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1969.4.18〜4.20 [当時の「記録」]

前回、鮎川信夫の『吉本隆明論』とあったので探しているうちに、秋山駿の「病者の親友」という文章にゆき当たった(『吉本隆明と〈現在〉』(現代詩手帖1986.12))。吉本にすがる「病者」の群れについていう。《彼ら病者とは、まず自分自身と格闘しなければならなくなったために、社会的生活への配慮に回す力を、奪われた者達である。彼等が自分自身と格闘するその急所のところに、吉本隆明の言葉が出現する。》その通り! さらに続く。《これはどういうことか? 病者は自分自身と格闘している者である。なぜ格闘するのか。彼等が自分の生に「気品」といったものをもとめているからだ(と私は思う)。気品とは、ありもしないもの謂で、それは現実生活と対立し、矛盾する。矛盾の中で、彼等はもがき苦しむ。苦しんで伸ばした手の掴むものが、吉本隆明の言葉だったとは。こういう光景こそ、人間のもっとも貴重な部分である。その光景の確かな一端にいることが、吉本氏の光栄である。それ以外のことは、すべて無用である。》ここを素直に(皮肉あるいは嗜虐としてでなく)受け取れば、この頃の「私」は、「人間のもっとも貴重な光景」を生きていたことになる?《無用のお断わりをしておく。病者は単純な者ではない。むしろ、われわれより複雑な者である。私は彼等が生に求めるものを、単純化して、気品と言ったが、彼等自身の言葉に従えば、それは「思想」なのである。彼等が吉本さんに見出しているのは「思想」なのだと思う。》当時の私にとっての「思想」を言い当てている。

もうひとつ、つぎに読んだのがその前にあった内村剛介「”下等な真理・高等な欺瞞”」。《吉本は倫理の次元において革命を求める。ひとりびとりに革命を求めるのだ。彼は抑圧を生まぬ人間関係を求め、革命を人間存在そのものの次元で求める。自他に抑圧なき存在を求めるのである。これは自立した人間を求めるということであろう。》これにも納得、「自立」へのこだわり。「自立」とは「自他共に抑圧なき存在」たること。そしてその先まで言い当てている。《ところでまさにここで吉本は苛酷になる。自立しえない存在にもあえて自立を求めるからである。そもそもひとはついに自立しえない存在であるのかも知れないではないか。このことをあえて無視して進もうとするのが吉本の倫理であるとすれば、大衆の根にあるこの倫理は、ないものねだりの吉本倫理に逆らい、逆に吉本倫理に解体を迫るものとなるだろう。「大衆の原像」が吉本自身に向って反逆するという図である。》「吉本倫理」をもろに引き受けてきた私自身が、まさに「解体」を迫られることになっていた。ちょうどこの時のことだった。よくもまあ今ここで、秋山・内村論考に出会ったものだと、感銘を深くする。当時の自分を見事に時代の構図の中に収めることができた。

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