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1969.4.12(承前) [当時の「記録」]

「岡大学生運動史」というサイトを見つけた。中に、岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17> の章があり、わたしのすぐ外側で起きていた事ごとが「闘争」サイドから詳細に記されている。4月12日、学生が上から落とした石に当たった警官がひとり亡くなった。一連の動き、私には「紛争」でしかなかったが、その中で死者が出たことは重かった。そのことによって、その後何人かの身近な友人たちにも「徒労」としか言いようのない事態がふりかかることになる。
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<学内機動隊導入,反動赤木学長退官>
 4月12日未明,現場検証の名目で,機動隊500が学内に導入された。午前3時頃から情報を聞きつけた200名の学友が続々と構内に結集し,東西道路をバリケード封鎖する。5時半すぎ,姿をあらわした機動隊は学友の「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールと激しい投石の中,30分ほどかかってバリケードを破壊し,学内に乱入した。キャンパスに集った600名の学友が抗議のデモ,すわり込み,投石を行って対抗したが,不当にも機動隊は全共閾議長小山君を初めとする3名の学友を逮捕し去り,学生に無差別的に警棒を下し,多くの学友にケガを負わせて,学生会館,学生部,法文新館,教養部に乱入し,8時半すぎまで強制捜査が行れた。午前9時から全共闘は学館前にて川代学生課長の責任追及集会を大衆的に行った。この中で学生課長は告発文書にある「暴行行為」がなかった事を認めた。この集会に対し大学当局は機動隊導入を要請,午前11時頃450の機動隊が学内に再度乱入し,学友に襲いかかり,学館前を完全に「占拠」したが,学友300名の激しい投石の中を正午すぎ退散した。この後学友はただちに正門前バリケードを再構築した。
 一方,この日の闘いは反革命軍団−機動隊員有本の死をもたらした。権力,大学当局は警官一名の死を最大限利用して,全共闘圧殺=岡大の圧殺をもくろんだ。
 4・l2以後,全共闘に対し「暴力学生,殺人者集団」のキャンペーンが大々的にはられ,当局は「全共闘は暴力集団」として一切話し合いに応ぜず,逃亡を続ける。学生の中には有本の死に一定の動揺はあったものの,全体的に再度の機動隊導入を許さない声が高まる。
 4月l9日,教養部萩原教官声明「既成の大学共同体につながる職務形態を一切拒否,知識の大衆管理化を要求」4月20日,同坂本教官声明「教養部教官会議が自己批判しない限り,会議出席を拒否」が出される。
 この頃から大学当局は一方的全学集会を画策する。これに対し医・法文・教養教官有志8名が執行部の自己批判,辞任を要求し,全学集会拒否の声明を出し,全共闘,ノンセクト連合も実力粉砕に向けての闘いを構築していく。4月26日には全学集会粉砕総決起集会が克ち取られた。
 4月27日正午頃,全学集会の会場である岡大附小・中前に結集した学友l00名は教職員の検問を突破して会場に突入し,演壇を占拠して学長弾劾集会を開いた。午後2時頃には学友,教職員の数は4,000名に達し,全共闘は,右翼と一体となった民青の闘争妨害をはねのけ,ついに4時l5分,閉会宣言を勝ち取り,全学集会は流れた。
 全学集会策動を徹底的に粉砕された赤木は全学ロックアウト,という強行路線による岡大闘争の全面的破壊,「正常化」を行うとしたが,さすがに評議会を通らず,孤立し切って退官−逃亡を表明する。これに代って登場したのが「話し合い路線」をかかげつつ,機動隊導入をくり返す谷口学長代行である。
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こうした動きはずーっと痕を引いて、1975年には寮を舞台にした学生同士の衝突で、寮生に死者が出る事件も起きている。慚愧である。(「マル青同」寮襲撃 大沢真君虐殺 <1975・5・25>
当時の記録に「極限」の語がしばしば出るが、たしかにそれを思わせる「情況」の下で生きていたのだろう。自ら「戦中派」を名乗る所以である。
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