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1969.3.23 (2) [当時の「記録」]

「知識人」「大衆」「理念的人間像」の三分類、「理念的人間像」はともかく、「知識人」と「大衆」は、吉本からのものか。ともかく図式化はオリジナル。今読んでる井筒俊彦の『イスラーム哲学の原像』の三分類を対応させてみたくなった。
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  棄てよ、理性のさかしらを。
   常に実在に融化してあれ。
  ひ弱なる蝙蝠の目に、燦爛たる
   太陽を見詰める力はないものを。(マハムード・シャバスタリー『玄秘の花園』)
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 「己の自我を遠ざけよ。他者の姿を心に見せるな」
イラン詩人ジャーミー)
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  人間の三段階説
  一「俗人」→理性だけの人(下品)
  ニ「選良」→直感だけの人(中品)
  三「選良中の選良」→理性と直感を合わせた人(上品)
              (ハイダール・アムリー『あらゆる玄秘の統合点』)

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イスラム・人間三分類.jpg人間の三段階の一、下品(げぼん)はさらに二段階に分けられる。下品の下は、表層的な現れにしか目の届かない人、この人にとって神は存在しない。下品の上は、感覚的事物の向こうに目には見えない実在を感ずる。それは絶対者としての神かもしれない。しかしこの段階では自我意識があるために、彼方に見える絶対者も他者に過ぎない。自我意識の消滅によって中品(ちゅうぼん/選良)に至る。しかしこの段階になると、下品の時に見えていたものがすべて幻影のように思えてしまう。《鏡に映った物象だけを真実在と考えて、鏡そのものを見ない下品の人たちも間違っているけれども、鏡だけを実在として、鏡の面に現れているものを無条件で非実在とする人たちもまた間違っている。》(185p)そして上品(じょうぼん)の段階に進んだ人が《絶対者と相対的事物の世界を、一者と多者との一致、つまり、coincidentia oppositorum という力動的な結びつきとして把捉することのできる人々》であり、《神という鏡を見つめながら同時にそこに映った事物の姿を看取し、鏡の前の映像に視線を向けながらしかも鏡をもそこに見る》ことができるようになる。「知識人」「大衆」「理念的人間像」の三分類図式に無理やりあてはめてみました。こうじゃないああじゃないという、とりあえずの叩き台です。
【追記 2.2.3】「自我」をどこに置くか、迷ってます。原点を「自我」にするのはどうだろうか? 縦軸は「無」の軸。横軸は「有」の軸?
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