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1969.4.28 [当時の「記録」]

昨日「移ろうままに2」に、この「移ろうままに3」のことを書いた。そのせいで、おとといの47アクセスが、昨日は252アクセスになっている。カミングアウトで「人生全開」、そんな気分になった。もう人生そう長くはない、もったいぶってもしょうがない。
さてこのあたり、いろんな本を読みかじっている感じだが、どういう経緯か江藤淳の『作家は行動する』に行きあたった。《江藤はまさに4/25以前のおれを負の行動の論理として説明している!!》として二文をひき出している。
”「もの」たちの奥深くに埋没し、「自然」の中にわけ入ろうとする。そこへ「死」が出現したとき、たぶん悟達が達成される。”
”真の文体は現実に対する謙虚さ、ないしは他者に対するはたらきかけの意志によってしか生まれないのである。”
後者にはわざわざ右側に波線を引いている。自分だけで完結させようとしてジタバタする世界から脱け出て〈関係性〉に目覚めた、ということか。「大人になった」のだ。
この本のレビューに《「良い作家」とは…/作品を「見せる」のではなく、「おいでよ!」と作品の中に読者を「参加」させる作家であり、志賀直哉のようにリアリズムを履き違えず(?)、自然を見たら自身の言葉でそこに「ある」ものを描写し(自分の目に映ったものが真実なので、状態をまったくそのまま写実する必要はない)自然へ返すこと、そしてフィクションの「だまし」「うそ」「しかけ」を越えて、その先に真実を書き記すことの出来る者…。ミシマも、大江も、そして大岡さえもこれには完全にあてはまらない。/氏はとにかく、まっとうなことをまっとうなままに言っている/書いているに過ぎなく、そのまっとうすら満足に行えない作家がどれほど幅をきかせているか、ということなんである… 》(めそ ★2016.7.24)この感覚からすれば、三島(あるいは太宰も)は「拵えごとの世界」にすぎないということか。よくわかる気がする。
ともあれ、私はめでたく高橋和巳的世界から完全脱出を果したようだ。
その高橋和巳、この頃すでに病に侵されていたのだろう。自身、高橋和巳的感覚のまま「わが解体」を書き、京大助教授の職を辞し、2年後、1971.5.3没。誠実な人生を終えた。夫人の高橋たか子、その作品を追ったことはないが、高橋和巳の人生を引き受けつつ独自な世界を切り開いておられたようで、去年だったか山形新聞文芸欄でそのことを知って、以来気になっている。カトリックに入信、修道生活を送られたこともあるという。
*   *   *   *   *

4/28 2:45am
このごろ、小説は朝しか読めなくなってしまってる。起きだすと、頭には他のこといっぱい浮かんできてしまう。
ジャン・クリストフ、三冊のうち一冊よんで、「悪霊」読みはじめた。精神の振動が激しいけど、これが自然なのだから。

われわれは創造の世代、とふと思う。吉本、高橋は認識の世代。常に前向きで・・・か。
サルトル、今日少しよむ。よくわかりそうな気がする。おもしろい。でもあきる。

4:00pmごろ
大原橋の少し上の河原で、
煙草のせいかもしれないが部屋にいて本をよんでも全然すすまんので汽車で玉柏でおりてここにいる。
ものすごくいい天気。少々暑ささえ感じる。若葉がものすごくいい季節だ。今坐っているまわりにも紫やら黄色の花が咲き乱れてる。

だんだん考えがでっかくなってきた。自分で始末しきれなくなってしまっているみたい。
本を読むにも前向きな姿勢でいかねば読めなくなってしまってるのかもしれぬ。「悪霊」ものすごくおもしろそうなのに身が入らない。別のものを求めてるのかもしれぬ。

ゆきつくところまでゆきついているのかもしれぬ。
自分の内部分裂が激しくなる。太宰はやはり死ぬほかなかった。

われら創造の世代!!
太宰の屍をのりこえて? キザ?

神がない、ということの実体は。日本において、と、西洋において。
この辺から、日本の特殊性、それゆえの独自の可能性も生まれてくるんじゃあ?
日本にはもとから神はなかった!! じゃあ、それに代わるものは何だろうか?

虫がうるさい。いやな夏への兆。

江藤「作家は行動する」
”ことばによって思惟をおこなうということは、「存在しないもの」によってまぎれもなく「実在する」世界に迫ろうとすること。”
”われわれの日常生活というものは、いわばあの「鏡の部屋」をひとつの平面と錯覚するところに成立している。”
”ことばでいいあらわせないから、いわないですませる。これは日常生活者の論理である。言葉でいいあらわせないからいわなければならない。これが文学者の論理である。”
”もっとも充実した行動の軌跡がひかれるとき、文体はつねに美しい。”

9:05pm
高橋和巳の如き、マイナスに向かう下降的主体性論にとどまる限り、即座に全く逆の客観主義に転換しかねない。江藤はプラスに向かう主体性論をかげており、現在のおれにマッチしたものである!!
4/20の”妥協したところにひろがる大平原”はまさに転換した客観主義に他ならない。高橋和巳は、転換への必然性を予感しながら転換しえない、というところに、彼の、のぞきみるにみれない深淵があるにちがいない!! これから、(この大学紛争をかれがくぐりぬけて)彼はどういう道を歩むか?

10:25pm
「作家はーー」読みつつ、
江藤はまさに4/25以前のおれを■■の行動の論理として説明している!!
”「もの」たちの奥深くに埋没し、「自然」の中にわけ入ろうとする。そこへ「死」が出現したとき、たぶん悟達が達成される。”
”真の文体は現実に対する謙虚さ、ないしは他者に対するはたらきかけの意志によってしか生まれないのである。”
おれの4/25→4/26への転換(川端→ロマン・ローラン)は、江藤によって明確に理論づけられたといってよい!!
認識から創造へ!!

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