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1969.5.11〜5.13 [当時の「記録」]

毎週土曜日の午後から月曜日の朝まで、一日何回か決まった時間に校内を巡視するだけの当直アルバイトを始めた。家庭教師先のお母さんが務める聾学校の仕事だった。寄宿舎があるので、食事の時間にはそこから女子中学生が食事を運んでくれる。聾学校なので黙々とことは運ぶ。ずっとテレビとは無縁な暮らしだったが、ここにきてテレビとも親しくなった。卒論をコピーさせてもらった記憶があるので、3年近く勤めたことになる。さほど気を使うこともなくほんわかと穏やかなバイトだった。家庭教師先が学校のすぐ前、お父さんは全盲の鍼灸士で盲学校の先生だった。蒸気機関車の機関士だったが、戦後間もない頃メチルアルコール中毒で全盲になられた。歌をよくせられ歌集をいただいたこともあるが、ご自分の生涯を振り返られた著『白杖』を出されたのが平成13年のことだった。森御夫妻からはあとあとまで気にかけていただいた。お世話になりっぱなしだ。御著書の「はじめに」を転載させていただいてご家族を偲びたい。

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森基ご夫妻.jpgはじめに
 私の青少年時代の大半は、日中戦争·第二次世界大戦と、戦争に明け暮れた陰うつな時代でした。 その中で、少年の私は、SLの機関士になりたい夢をもっていました。夢を現実のものにしようと国鉄に入り、昭和十八年二月、機関士になることができました。初めて単独で機関士席に座った時の喜びと緊張感は、今も忘れることができません。
 昭和十九年八月一日召集された私は、陸軍の飛行整備兵になりました。それから終戦までの一年余り、内地の飛行場など数か所を転々とした後、石川県小松飛行場で終戦を迎えました。
 復員した私は国鉄に復職し、また機関車に乗務していた昭和二十一年四月三日のことでした。機関車の守護神稲荷大明神の春祭りを労組主催で盛大にやることになり、その時出された酒にメタノールが混入していたため、私は一夜にして失明してしまいました
 人生を絶望した私は、死の誘惑にかられたことも一度や二度ではありませんでした。しかし口にこそ出しませんでしたが、両親の悲嘆にくれている様子がひしひしと感じられて、これ以上の不孝はかけられないと思いました。
 生きるためには、 生計は自分で立てなければなりません。 目の見えなくなった私に何ができきるのか考え抜いた挙句、はりきゅうあんま業しかないことに思い至り、意を決して盲学校の門をくぐりました。
白杖.jpg 暗いイメージしかもっていなかった盲学校が意外に明るく生徒同士が互いに助け合い励まし合って、和気あいあいと勉強しているのに私は驚きました。中でも、私よりかなり年長の中途失明者が、生きるため、家族のために必死で頑張っている姿に励まされました
 また、 先生方の中には、自分も盲人でありながら、生徒の指導だけでなく、盲人の社会福祉活動に尽力されている方もおられて、その後ろ姿に、私の進むべき道を示していただいたように思いました。
 その後、昭和三十年から二十九年間、教員として生徒の指導にあたると共に、四十二年余、視覚障害者協会の社会福祉活動に参画し、精一杯努めてきました。
 平成十年三月末、協会活動のすべてから退き、自由の身になりました。
 私の人生の足跡を振り返ってみると。そのひと足ひと足が、私にとってかけがえのない大切なものに思えてきました。ぜひ自分史を書こうと思っていた矢先、朝日カルチャーに自分史講座のあることを知りました。 自分史については何の予備知識もない私は、 とにかく受講することにしました。
 講師の佐藤圭一先生のご指導をいただいて二年近く、なんとか書き上げることができました。私の歩いてきた道のありのままを書き綴ったものですが、かなり自我の強い私の個性が、随所に顔をのぞかせていることは否めません。読みにくい点はどうぞお許し下さい
 また、終りになりましたが、何のお許しも得ないで、実名や写真を使わせていただいている方々には、何とぞご寛容のほどお願い申し上げます。
森 基
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「青井」の名も懐かしい。津山高出身の医学部生で同年、中途入寮だったが、2回生の時部屋が向かい同士だった。青井と相原の丁々発止の議論を舌を巻きながら傍で聞いていたことがある。大学とはこういう連中の居るところか、と。青井は「民学同」、相原は創価学会だった。青井は大学紛争の終息とともにドロップアウト、郷里に近い酪農家に婿入りしたと聞いたきり、頭も気持もいい男だった。
《一切の政治を拒否する。》ここでいう「政治」とは、マルクス主義的政治主義での「政治」の謂だったと思う。それから10年ぐらい経って別の意味で「政治」が私の前に立ち現れるが、それまではずっと自らを「政治」とは別世界に置いてきた。
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5/11 10:15am
岡山聾学校で当直のバイト。テレビ、ひとりでみながら。

理念として正しくとも、生きるということは、現実でその理念と現実とのギャップを埋めてゆかねばならないということ。

理論とその実証。実証こそ、生きる、ということ。

0:50pm
風がある。タバコふかしたりして大分おちついた気分。
テレビをみながら考えたり。
ある一つの状況をぶちこわすということ。頭の中ではきわめて容易にそれがなされる。しかし結局、頭の中のことだけ。しかし、ぶちこわしたところでしか生きてゆけないとしたら。
ある一つの状況を支配している幻想。つまり、一つの状況に中にあるすべての人が当然のこととして考えていることがら。
それをぶちこわす。ぶちこわしたい。そういうどうしようもない欲求。ぶちこわしの思想。
生きてゆくには毒になる思想だ。しかし、いったんそれにとりつかれたら逃れられないものであるかもしれない。
絶対にぶちこわされないものだけで生きてゆくことはできないのだろうか。おそらく今のおれにはできない。
大学とは、ぶちこわしの思想で生きてゆくことが通用する社会というのかもしれない。

2:15pm
本を読む気もしないし、寝てしまうわけにもいかず。
ボケーッと時間をもてあましている感じ。

5/12 8:10pm
おととい洗濯して、今日久しぶりに部屋の掃除。
どうも資本論読みだしたが頭に入らず。
夕べ蚊が出て眠れず。
昨日は一日TVみてた。家へと礼子へと橋本さんへ手紙かく。
今朝八時半ごろバイトから解放されて朝の道を帰る時の快さ。
タバコのむせいだろうか。アタマボーッとしてしまってる。

11:05pm
全共闘と民青ぶつかってるらしい。あわただしい学内。
結局、おれ日和ってるんじゃあなかろうか、という気持。あの行動が挫折すると・・・。
しかし、生きながらの破滅から逃れようとする限り。
しかし、この代償を支払うことはできるのか!?  さっき、青井のかすれたマイクの声が聞こえた。

一切の政治を拒否する。
その代わりに何する? 政治を超えた理念で生きてゆこうとしながらけっきょくできないじゃあないか。

なんのためにこんなこと書いているのか。

全然心の緊張がゆるんでる。たるみっぱなし。追いつめられた感覚がない。
生きてゆくって結局こんなんよ、って思ったり。

閉じた感覚、未来の全面的解放を目指すがゆえ?
徹底的に閉じる。未来の解放を信ずるがゆえ。
しかるに、そういう未来を信ずることのできないものは、閉じていることに絶えず不安を感じねばならない。
こうして閉じていることがほんとうに未来の解放へつながるんだろうか?と。
開こうとすれば開けるかもしれぬこの感覚。それでも閉じさせるものは? 傲慢さ?

○   ○   ○

イメージの貧困!!
閉ざされた内部の閉ざされた世界、イメージの世界。その貧困さゆえに、おれはこうした狭間でうろうろしてなければならないのかもしれない。

○    ○   ○

せっかく苦労して辿りついたところが、なんでもない、あたりまえの、みんながそこで生活している所だったんだ、という事実。これがおれのショボン原因なのだろうか。傲慢でありたいと願う心?

みんなわかってるのに、おれだけわかってなくて、それがゆえに、たえず何かを求めつづけていなければならなかった。そして、その求める姿勢にナルシズムを感じて、それがゆえに他に傲慢になってしまっていた。
こうして辿りついた地点、ここから真に生きるってことがはじまるのかもしれないけど、おれにはなんのとりえもないんじゃあないだろうか、という不安。傲慢さ、自惚れゆえの不安。

5/13 9:20pm
久しぶりに酒呑む。
バイトで1300円入ったんで、二宮におごって。
ゼロの感覚。

橋本さんよ。このおれは客観的に見てどんな人間なんでしょうか。
君は、僕についてはほとんどなにも云ってはくれなかった。そしておいてけぼりにして行ってしまった。
おれはどんな人間で、どのようにして生きてゆけばいいのか。率直に、忌憚なく云って欲しい。

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