SSブログ

斎藤喜博先生のこと [メモ]

今見た「チコちゃん叱られる!」で斎藤喜博先生が紹介された。卒業式の「よびかけ」の始まりは、斎藤校長の島小学校だった。たしかに、そういえば・・と思い出した。当時の在校生、卒業生、100歳になる保護者だったおばあちゃんも出て感動的な構成だった。

一緒に見ていた家族に「この先生の講義を聴いたことがある! ばばちゃ(祖母)が脳卒中で危篤になり、一旦帰ったが、斎藤先生の集中講義が聴きたくて岡山に戻り、ばばちゃの死に目に会えなかった。」と話した。「すごい存在感で、催眠術にかかったようにして講義に集中させられた。」とも。「記録」を探したら、そのときのことが記してあった。昭和46年11月22日だった。祖母は翌23日に亡くなっている。

林(智)に薦められて受けた宮坂義彦先生の「授業論」で斎藤先生を知った。3年間の教員時代、まさに私にとっての「カリスマ先生」だった。牧石小に勤めていた昭和47年には、斎藤理論を実践する神戸の御影小学校にも行ったことがある。女子寮で委員会でも一緒だった1級後輩の坂東さんが勤務していて羨ましく思ったものだった。『斎藤喜博全集』も買った。教員生活の最後となった福島緑ヶ丘高校に何冊か置いてきたが、半分ぐらいは埃をかぶってあるはずだ。レコード集『風と川とこどものうた』も持っていたが、小学校の先生を務める眞賀さん(旧姓安藤/牧石小のの教え子)が数年前ここに来てくれた時にあげた。一回生の時に今西錦司先生、6回生の時に斎藤喜博先生、このお二人の講義を聴けたことは、私にとって大学時代の大きな財産である。

斎藤先生については林(智)関連でここにも書いていた。→https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-01-03

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

1969.6.18〜7.14 [当時の「記録」]

バイトに明け暮れていたのだろうか。なにも書くこともない、そんな日々だったのだろう。

《蹉跌は証だ》の詩は高村光太郎の「街上比興」だった。

このころの学内。6月18日午後2時頃,教職員,民青が現われ南北道路バリケード破壊を開始する。まず理学部生を中心とする50名の学友が坐り込み,続いて全共闘の学友も坐り込んで抗議する。3時頃機動隊500が導入され,教職員,民青と共に,坐り込んだ学友に暴行を加えつつバリケード破壊を強行する。4時半頃,「全員逮捕」の恫喝を粉砕して600名の学友が機動隊を県宮グランドまで迫い返した。夕方300名の学友が結集して民青に対する弾劾集会が開かれ,バリケード破壊に奔放し,学友に対する暴行を追求,民青の自己批判を勝ち取った。/ 同日学生寮に私服警官官5人が無断侵入し,寮内を捜索した。これに対し19日,20日延べ16時間にわたる学生部団交が行れ,学生部長自身が西署に対する”抗議文””申し入れ書”を出す事が確約された。相つぐ機動隊導入,日帝の「大学立法」策動によって再び全学の闘うエネルギーは高揚し,一方で右翼民青秩序派のスト解除,「確認書」路線の破綻が明確になっていった。》「岡山大学学生運動史」再掲))ここでいう「学生寮」は女子寮だろう。石倉さん関連だろうか。北津寮に入ったというおぼえはない。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.6.12〜6.13 [当時の「記録」]

記録4.jpgここから新しいノート。吉本の言葉が記されている。

表紙裏《弱者は時代に耐ええずに死ぬ、とうそぶく連中がいるかぎり、わたしたちはみずから死んではならないのだ。 吉本隆明》

INDEX《結局は「そこ」へゆくに決っている。だから僕は「そこ」へゆこうとする必要はないはずだ。「ここ」をいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。 (吉本)》

高橋和巳「わが解体」の『文芸』連載が始まった。心高まらせて読んだ記憶がある。自分にとっての高橋和巳が見える。『わが解体』の、星五つアマゾンレビュー、ぶんちょさんの感想、

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.6.11 [当時の「記録」]

昭和43年(1968)10月25日まで共に過ごしたノート「記録 No.3」の最後です。昭和44年(1969)1月21日《昨日の学生大会で、スト権確立との事》からはじまりました。数えたら大学ノート72頁分です。6月11日現在、大学は混乱状態の真只中です。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.6.2(2)〜6.6 [当時の「記録」]

《たかが学生、習い覚えた知識で革命が起こせてたまるかってんだ。》全共闘に向けて投げつけた言葉だった。

このころの大学の状況を『岡山大学 50年小史』はこう記す。五月十二日頃、 スト解除の動きとそれに反発する全共闘の動きとが、激しく入り乱れ、 全共闘側は、再封鎖の態勢を固めた。この間全共闘側と教職員との間に小競り合いが発生し、教職員の何人かは負傷した。/それが次の転機となった。大学側は、 話し合いによる事態の解決には、かなり悲観的になっていき、次第に対決姿勢を固めていく。それがはっきり現れるのが、二十日の大学による学生の告発であり、さらにその方向が明確になるのが、二十八日である。大学側は、警察に対して封鎖解除、バリケード撤去要請を行った。しかし、大学側はここでも、傷害·占拠·封鎖という暴力的な犯罪行為に関してだけ警察力の介入を要請しているのである。/ストライキ状態は、すでに三か月続いている。新入生は、この年から始まった医学部薬学科を別として、一度も授業を受けていない。ストライキ状態について、大学側は、なお学生多数のスト支持の意思を一応推定して、それに手を着けることはしていないのである。/六月になると、 十五日には、全共闘と、これを支援する外部の学生や労働者?が、一度撤去された南北道路のバリケードをコンクリートで固め、再封鎖した。十八日県警機動隊が、これを再び排除する。事態の打開に向けて有効な手が打たれることなく、バリケードの争奪合戦が続き、七月は空しく過ぎる。》(180p)
一方、全共闘側「岡山大学学生運動史」の記述(一部再掲)。
5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。
・・・・・ /5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。/一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。/5月26日,当局の工,教養授業再開策動に対し坂本教官「現段階での正常化拒否」声明を出す。/5月28日午前5時10分,4・12事件,5・12事件の現場検証を口実に機動隊1,200が再び学内に導入され,法文のバリケードを破壊し,封鎖解除を強行,学友を正門からつき出してロックアウトした。午前10時,機動隊が引き上げた後,”退去命令”を無視して学友20名が法文に入ると,教職員が外からカギをかけて,掃除をしていた女子学生2名を含む8名を閉じこめ,さらに機動隊を再導入して,8名を不当逮捕した。正午過ぎから法文前で,学友300名が,教官30名に対し,抗議糾弾集会を開いたが,杉学部長は逃亡し去った。/5月29日好並教官,坂本教官,機動隊導入に抗議して理学部前に坐り込む。/6月10日,自衛隊弾薬輸送車,1年ぶりに南北道路を通過する。これに対し,6月15日,樺美智子追悼集会の後,全共闘が南北道路を再度バリケード封鎖する。/6月18日午後2時頃,教職員,民青が現われ南北道路バリケード破壊を開始する。まず理学部生を中心とする50名の学友が坐り込み,続いて全共闘の学友も坐り込んで抗議する。3時頃機動隊500が導入され,教職員,民青と共に,坐り込んだ学友に暴行を加えつつバリケード破壊を強行する。4時半頃,「全員逮捕」の恫喝を粉砕して600名の学友が機動隊を県宮グランドまで迫い返した。夕方300名の学友が結集して民青に対する弾劾集会が開かれ,バリケード破壊に奔放し,学友に対する暴行を追求,民青の自己批判を勝ち取った。/同日学生寮に私服警官官5人が無断侵入し,寮内を捜索した。(こんなことがあったんだろうか。記憶にない。あるいは石倉さんの件で女子寮かもしれない。)これに対し19日,20日延べ16時間にわたる学生部団交が行れ,学生部長自身が西署に対する”抗議文””申し入れ書”を出す事が確約された。相つぐ機動隊導入,日帝の「大学立法」策動によって再び全学の闘うエネルギーは高揚し,一方で右翼民青秩序派のスト解除,「確認書」路線の破綻が明確になっていった。/6月28日農学部,7月2日工学部で再度ストライキに突入,7月6日には新設の薬学科もストライキに突入し大学立法粉砕に決起した。また6月30日500名,7月12日300名の結集をもって立法粉砕集会,市中デモが貫徹される。》

大学は混乱の極みに達していた頃のことだった。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.30〜6.1 [当時の「記録」]

別に詩を作ろうとしたわけではない。ただしばらく経ってみれば《所詮センチメンタリズムの所産でしかない》ということで抹消。がむしゃらのみが生きがいに通じるのであろうこの現在》と言う。「がむしゃら」とは〈対自性〉を振り払ったところの〈即自性〉か。それ自体で完結している状態で「評価」を超えている。これまでしばしば「傲慢」忌避志向がでてきたが、〈対自性〉につきまとう「評価」の感覚がいやでいやでたまらないということなのか。そういったことも含めての「がむしゃら」希求なのだと思う。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.18〜5,29 [当時の「記録」]

22歳の誕生日を徳山で迎えた。明星ラーメンのアルバイトで、指定されたインスタントラーメンを扱ってる店を一軒一軒歩いて探し当てながら、これから販売計画中の新製品を持って訪問し、新製品の説明をしたり、感想を聞いたりする仕事だった。かなりの田舎の店まで丹念に回った。《中麺 -ちゅんめん-(袋めん。1969年発売。ノンフライ麺の走りでもあり、他社も追随するほどのヒット商品であった)》がその新製品。明星食品の「発売を終了した商品」(ウィキペディア)の中にあった。

《生活そのものでしかないものが、思想のあるいは倫理の装いをもってあらわれる。》《ほんとうの未来は現実の最先端にあるのではない。現実の深部にこそ、その萌芽がかくされている。》

*   *   *   *    *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.17(2) [当時の「記録」]

ここで唐突にゲーテ『ファウスト』が登場した。どういうわけかここだけは横書きで大きな字で記している。
実はこのことに同調するようなシンクロニシティがあった。「メルロー・ポンティの評伝」とのふれこみの広告を見て注文した『メルロ=ポンティ あるいは人間の尺度』が昨日届いたのでパラパラ見ていたら、次の箇所が目に飛び込んだ。《見るものと見えるものとの同一性ーーwäre nichit das Auge sonnenhaft・・・〔もしも目が太陽のようでなかったならば・・・}ーーは、きわめて古い認識論的主題であって、メルロ=ポンティもそれをよく知っていたーー「・・・われわれのあらゆる認識理論、とりわけどうにかこうにか諸科学が担い運んでいる認識理論に混ざりこんでいる、このような見えるものの存在論の断片」(『見えるものとみえないもの』)。》巻末の訳注には《この句にはじまる四行詩が、ゲーテの『色彩論』と晩年の詩集の中に見出される》として次の異文の引用があり、訳がついていた。《Wär nicht das Auge sonnenhaft, die Sonne könnt' es nie erblicken; läg' nicht in uns des Gottes eigne Kraft, wie könnt' uns Göttliches entzücken? (もし眼が太陽のようでなかったなら/どうしてわれわれは光を見ることができようか〔太陽を決して見ることができないだろう}/もしもわれわれのうちに神自身の力が生きて〔存在して}いないなら/どうして神的なものがわれわれを魅することができようか。)》さらに、《この詩そのもののモティーフもプロティノスやプラトンにまで遡りうるものである(ゲーテは「古代の神秘家の言葉」として示唆している)。》としてプロティノスの『エンネアデース』からの一節《眼が太陽のようでなかったら、決して「太陽を見ることはできなかったであろう。そしてまた、魂は美しくなっていなければ、美しいものを見ないであろう。》が紹介されていた
「太陽凝視」が見る側の「神性」に対応しているという意に受け止めた。まさにイスラムの神秘体験、古神道の浄身鎮魂に通ずる。→「太陽凝視」のすすめhttps://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.16〜5.17 [当時の「記録」]

全共闘の側で書かれた「岡大学生運動史」より。《5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。/ この大管法恫喝の中,谷口体制の下,右翼と一体となった民青,秩序派による封鎖解除,スト破壊という反革命闘争圧殺と全共闘との激しい闘いが展開される。/ 5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。/ 一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。》岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17>)

日本共産党は大学に深く根を張っていた。したがってその青年組織である民青は「大学の秩序」の側にあるのは必然。本来相容れないはずの日本共産党と右翼はともに、全共闘からみれば「秩序の側」だった。民青の人たちはわたしの周り多かったが、おしなべて上昇志向の印象が強い。まさに全共闘にとってはターゲットそのものだった。右翼はといえば、あるいは空手のHさん(2級上)がそうだったかもしれない、と思うぐらいで、私の周りにはほとんど全くいなかった、というか私の視野には入ってこない存在だった。今になって思えば「右翼」は真っ当な存在だった。その頃、「生長の家」系をバックにがんばっていたのが、新潟大学の伊藤哲夫氏や大分大学の衛藤晟一氏。伊藤氏から当時の奮闘ぶりを聞いたことがある。いまや共に安倍首相の最側近。二人とも私と同年。

創立50周年記念事業委員会による『岡山大学50年小史』(平成11年 岡山大学)から転載。警官死亡事件を受けた文。事態の深刻さに大学側も学生側も驚愕し、問題の早期解決を目指す動きが一段と強まった。大学側も、学生側と徹底的に話し合い、事態を一挙に解決に持ち込もうとして、四月二十七日全学集会を計画した。大学側としても、学生の主張に出来るだけ耳を傾け、可能な改革は速やかに実行し、不可能なことははっきり不可能だとして学生の理解を求めようとしたのである。/ 全共闘側の紛糾作戦を阻止し、冷静で良識的な話し合いを確保するため、予備討論が重ねられ、会場も全共闘の妨害を警戒して、附属小学校校庭に設けられた。全学の教職員が、集会の成功を目指して、 附属小学校に結集した。/ だが、結果は無惨だった。 怒号するマイク、荒れる全共闘のデモ。騒然たる状況の中で、赤木学長の苦心の呼びかけもかき消されてしまった。なおも語りかけょうとする学長を目掛けて、デモ隊が襲いかかる。学長の訴えは、一〇数分で中止するほかない状況となった。全共闘の妨害によって、大学側と学生側との苦心の学生集会は、混乱のうちに流会となった。五月三日、赤木学長は辞任し、谷口事務取扱がこれに交代する。この時期、 大学倒としては、一方で、 学生の暴力事件については、 告発しつつも、学内の封鎖やストについては、 なおも学生側との話し合いの姿勢を崩さず、 機会を窺っていた。/ 五月十二日頃、 スト解除の動きとそれに反発する全共闘の動きとが、 激しく入り乱れ、全共闘側は、再封鎖の態勢を固めた。この間全共闘側と教職員との間に小競り合いが発生し、教職員の何人かは負傷した。/ それが次の転機となった。大学側は、話し合いによる事態の解決には、かなり悲観的になっていき、次第に対決姿勢を固めていく。それがはっきり現れるのが、二十日の大学による学生の告発でありさらにその方向が明確になるのが、二十八日である。大学側は、警察に対して封鎖解除、バリケード撤去要請を行った。しかし、大学側はここでも、傷害·占拠·封鎮という暴力的な犯罪行為に関してだけ警察力の介入を要請しているのである。/ ストライキ状態は、すでに三か月続いている。新入生は、この年から始まった医学部薬学科を別として、一度も授業を受けていない。ストライキ状態について、大学側は、なお学生多数のスト支持の意思を一応推定して、それに手を着けることはしていないのである。/ 六月になると、十五日には、全共闘と、これを支援する外部の学生や労働者?が、一度撤去された南北道路のパリケードをコンクリートで固め、再封鎖した。十八日県警機動隊が、これを再び排除する。事態の打開に向けて有効な手が打たれることなく、バリケードの争奪合戦が続き、七月は空しく過ぎる。》(180p) 

あれからもう50年、今の大学からは想像もつかないのではないか。今思えば、300万人以上亡くなった敗戦から24年、まだ「戦後」だった。当時の緊張感を思うと、それなりに命がけだった、といえるかもしれない。あらためて、「われら戦中派」と思う。「はぐらめい」のHNはこのとき授かった。

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

1969.5.14〜5.15 [当時の「記録」]

《全共闘の政治運動的部分には未来はない。そこには現実から疎外された理念による政治あるのみ。しかし、そうした理念をよびおこす、いわば社会運動的な部分にこそ未来を先取りする真の理念はふくまれている。》と書いている。その通りと思う。その政治感覚には全くついてゆけなかったが、何か新たな胎動をそこに感じていた。われわれ以上の世代の「政治感覚」に発したのだが、それがわれわれ未満世代の新しい「社会感覚」を呼び覚ました。2級下の「坪井」が思い浮かぶ。羨望の思いをもって坪井を見ていたように思う。夭折したと聞く。
その自覚があったかどうかはともかく、全共闘が提起していた「新しい社会感覚」について、50年経った現時点から評価する本に昨年出会った。井上智洋著『純粋機械化経済』だ。当時の学生たちは、「~すべし」と命令する父権的な強迫観念から解き放たれたかったのではないだろうか。68年革命は・・・最終的には・・・脱労働社会を到来させるAI(人工知能)とBI(ベーシックインカム)による革命のリハーサル》と書く。父権的な強迫観念から解放」とは要するに「根源的思考への志向」であり、それはすなわち「自己感覚を拠りどころとする」ということだった。まさに私にとっての〈自立〉が目指すところだった。世界的に見れば、この動きがあってこそ、マッキントッシュやウィンドウズやアイフォンが生まれ出たという。(『純粋機械化経済』を読む https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26)日本ではどうだったのだろう。
大学存亡の危機にあるこの時期に、林先生の家に栄作さんと泊まってきたことはすっかり忘れていた。栄作さんは2回上で漢文専攻。何かと目をかけていただいた。真庭落合町の家に泊めてもらったこともある。そういえば、結婚式にもよばれて多くの寮生で参列した。高校の先生になられた。生徒に慕われるいい先生だったにちがいない。今も年賀状をいただく。林先生は学生部長を務めておられ、寮生にとってはなじみの先生。林先生相手に団交をやったこともある。中国文学の教授で『十八史略』の第一人者であられたようだ。林先生なりになんとか打開の方途を探っておられたのかもしれない、と今思った。私では役に立たなかった。
*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。