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青木敬恵先生への手紙 [メモ]

昨日、青木先生から「荷物が届いた」との電話をいただいた。その時は私は留守だったので家内が話した。「若々しい声だった」と言った。戻ってから私から電話をさしあげた。週2回ヘルパーさんに来ていただいて基本的に一人暮らし。風呂も自分で入られるという。「気を遣わせてしまって」となん度も繰り返されたが、「20年前を思い起こす楽しい思いをさせていただいた」と感謝した。今度岡山に行ったら必ずお会いしたいのでどうか元気でいてくださいとお願いした。1年足らずの勤務だったのにこのように覚えていただいていることがほんとうにありがたい。

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2週間ほど前、岡山の牧石小学校の保健の先生だった青木敬恵先生から思いがけない荷物が届いた。数年前から年賀状のやりとりが続いていた。久しぶりに年賀状をいただいて、ゆっくり手紙を書こうと思っているうち、次の年賀状の時期になってしまう。こちらから果物を送らねば思っているうちに先生の方から届いた。びっくりしたし、ほんとうにうれしかった。電話で話すことができた。95歳とのことだがお声は昔のままに思えた。数えると足かけ50年前だ。すぐにも手紙を書きたかったが、目先のバタバタでようやく今日できた。

久しぶりに「記録」を引っぱり出すことになった。先生への手紙に記すことになった1972年5月20日のこと、実はその記録をもって、昭和44年(1969)1/21以来の記録の締めにしようと思っていた。そこから新しい世界が始まったから。しかし、青木先生への手紙に書いたので、久しぶりにここに留めておくことにした。

初めての出勤日5月24日の分。手紙には書かなかったが実はそのあとに次の文章が続く。

《おれはおれなりで、おれのままでやるとして、はたしてそれはやれるのか。
 先生の臭み、それを拒否すること。何か独特のものがあるのだ。それがおれにとって、浸みついたものになってほしくない。
 自分のありのままの心を保ちつづけること、か。
 先生、というくさみ。それは、おそらく、おぞけふるえるような何かなのだ。
 恐しさ。人間の恐しさ、のようなものが、プラスのものとしてそこにはある。
 できれば、それを、このノートで対象化してみたい、という下心・・・・・か。》

50年前にいだいたこの感覚、よくわかる。いったいそれはなんなのだろう、とあらためて思う。

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同世代吉野彰氏にとっての大学紛争 [メモ]

ノーベル化学賞吉野彰氏は「1948年1月、吹田市で生まれ」とのことなので同学年。日経の「私の履歴書」に大学紛争当時のことを書いておられたのでメモしておきます。日本史の福井博夫くんが吹田の生まれだった。私も吉野氏と同じく《全共闘運動には共鳴しないが、この運動はいったい何かと関心を寄せ、大きな社会変革が起こりつつあるのかと意味を考える「ノンポリ関心派」》に分類されると思う。吉野氏の述懐大学闘争は日本だけでなく世界の多くの国で起きていた。いまから考えると、70年前後は世界の大きな変わり目の時期だった。私たち団塊の世代は様々な立場で大学闘争を経験したが、社会のこと、日本のこと、世界のことをこの時期ほど真剣に議論したことは後にもなかった。》がよくよくわかる。そしてまた、今その時代がめぐってきたように思えるのだが。全共闘世代に火の気はありやなしや!?

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目を覚ませ!全共闘世代 [よびかけ]

昨日、こども園の評議員会があった。協議が一段落したところで、ひとりひとり何か語る機会が与えられるのが恒例。数年前定年になった元中学校長がこう言った。「コロナにすっかり席捲されっぱなしの世の中だが、このコロナ騒ぎ、何かウサン臭さが感じられてしょうがない。それなのにみんな唯々諾々その流れのままに流されている。若者からもなんの声も上がらない。教育がおかしかったんじゃあないだろうか、と今思う。」この言葉に力を得た。私の番に回ってきてこう言った。「『ワクチン接種しない』と言うことに勇気が要る。私は『コロナに罹るよりワクチンの副反応が怖ろしい。臆病者でゴメンなさい。』と言う。今から80年前、大東亜戦争が始まった。竹槍をもって戦おうとした。『二度とあんなバカなことは繰り返さない』と言ったはずなのに、今まさにそういうう情況になっている。命がけでもなんとか声をあげねばならない情況にあるんじゃあないだろうか、そう思っているところです。》
思わず「命がけ」という言葉が出てきたのにはわけがあった。昨日の朝、石垣りんの詩句にふれていたせいだ。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-1
《正しいと思ったことを
 命がけで言わなければならない時が
 あるかもしれない

「私は何の野心も大それた欲望もない
 ただ平凡で幸福でありたい」と
 そんな何でもないことを言うのさえ
 勇気のいる日が来るかも知れない、》 (『感想』)
家に帰ってからも「命がけ」の言葉が尾を引いていた。ふと思った。「若い人をあてにするんじゃあなくて、全共闘世代の中に火種は残っていないか。全共闘世代とはそのまま、不完全燃焼世代だった。燃え尽きるのはこれからだ。」
そもそもこの「移ろうままに3」を思い立ったのは、「全共闘世代」のあの騒ぎ、その意義もなんだかわからないままに過去の記憶の底に沈んでいくさまがあまりに哀れで、自分の当時の記録をたどってみようと思い立ったのだった。2年前、井上智洋著『純粋機械化経済』を読んで思ったのがひとつのきっかけだった。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26
8年前の民主党政権の時代、こう書いていた。あの時代を日本の戦後史に明確に位置付けた論を私はまだ知らない。ややもすると、とりわけあの時代「闘争」として体験した人たちにとっては、青春の思い出のように美化され郷愁の対象になってしまったりしているのではないだろうか。菅、仙谷といったいま権力の中枢にある方々にとってあの時代はどう自分の中で「総括」されて今に至っているのだろう。「精神年齢は70年代のままかもしれません。」の指摘が当を得ているように思えてならない。》(昭和40年代(1960年代末)大学紛争の時代を生きて)私の大学で突然「スト権確立」したのは、私が3回生の後期、1969年の1月20日だった。26日教養部封鎖。私は「部外者」に身を置いて、ひたすら寮でじっとしていた。私にとっては、高橋和巳から吉本隆明へのちょうど移行期だった。「結局は片想い」だった人がいたりして、自分にとことん沈潜できた時期だった。今思うと贅沢な時間だった。あの時間のおかげ、と今は言える。この著、「あの時の意味」についてあらためていろいろ思わせてくれた。しかし「世界レベル」ではそうだったとしても、日本においてあの時代の「成果」は、というと何を挙げることができるのだろうか。ひょっとして、我々はダメでも、我々の子供の世代が案外引き継いでくれているのかもしれない。この著者、ちょうどその世代だ。》
この時も「若い世代」をあてにしていた。われわれ世代は消えてゆくだけのように思えていた。そこに石垣りんの詩句で火が点いた。
“ すべてがそうなってきたのだから
 仕方がない ” というひとつの言葉が
 遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと
 もう他の雪をさそって
 しかたがない、しかたがない
 しかたがない
 と、落ちてくる。》(「雪崩のとき」)
このままでいいのか。今さら、惜しむ命もない。
以下、「雪崩のとき」「感想」全文。(My Last Fightから)
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ドラマ「流れ星」 [メモ]

昨夜のテレビドラマ、1970年の8月にタイムスリップする話。

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松坂慶子“夏子”が50年前にタイムスリップ!桐山照史、黒島結菜、船越英一郎出演の特集ドラマ「流れ星」が放送(画像3/9) |  芸能ニュースならザテレビジョン

特集ドラマ「流れ星」

主人公は、冷えた夫婦関係が長年続き、夫との会話もめっきり少なくなった女性・夏子(松坂)。ある日、 夫・謙作(船越)は外出先で命を落とし、ひとりきりになった夏子の前に魔法使い・マリー(黒島結菜) があらわれ、願いを4つまでかなえると言う。夏子は「夫と出会う前の過去にタイムスリップしたい」とリクエ スト。夏子とマリーは50年前に時をさかのぼる。

夏子がそこで出会うのは、若き日の謙作(桐山)、高校生のころの夏子自身(平)、 存命だったころの父・慎太郎(尾美)たち。夏子は自分の正体を偽って過去の日々をふたたび生き、そして、当時憧れていた教師・中富(堀井)と別れることになった本当の理由と、自分が知らなかった夫の隠された真実を知ることになる。時間旅行のさいごに夏子を待つものは? 夏子が魔法使いに申し出るさいごの願いは…?

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三島由紀夫の死から50年 [当時の「記録」]

三島由紀夫 週刊現代.jpg三島由紀夫 山新.jpg山形新聞を開いて三島由紀夫の死から今日で50年になることに気づかされた。

その事件をどう思ったか、何か書いたはずだと思い、当時持ち歩いていたノートを開いた。大学紛争の最中は毎日のようにことこまかに書いていたノート(移ろうままに3)も、嵐が過ぎて2年間留年することになり、ひとまず落ち着いた5回生、ノートに書くことも少なくなっていたが、この事件にはさすが反応していた。事件の第一報は大学からの帰途、だれだったかの家に立ち寄ってそこで聞いたような気がする。自転車で帰る川沿い4キロぐらいの道のり、頭の中がごちゃごちゃになっていた記憶がある。ノートに書いたのは翌朝の新聞(多分、朝日新聞)を見てからのことだった。その後『春の雪』は面白く読んだが、それからも三島に対する距離感は変わらない。昨年の10月にこう書いていた。《昨日、『近衛上奏文と皇道派ー告発 コミンテルンの戦争責任』(山口富永)のコメント欄に、《亀さんブログで取り上げていただきました。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1727.html 三島由紀夫についての諸評価を知ることができました。『英霊の声』は神道天行居と関わります。「生きる事実」と「書かれたもの」の異和を感じていました。昭和天皇も今東光師もそれを三島に感じておられたのではないかと思いました。三島の最期は、その辻褄合わせのような気がしています。》と書きつつ西田幾多郎を思ったのだが、三島由紀夫が「芸人」のように思えてしまった。哲学者と文学者の違いかと思ったが、必ずしもそうではない。若松英輔氏が三島由紀夫に惹かれることはない。井筒俊彦にしても、西田幾多郎にしても、「自己を垂直的に深める」ことが第一義であった。三島はといえば、ひたすら「知識の海」を泳いでいたように見えてしまう。》100分de名著「善の研究 西田幾多郎」(若松英輔)https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-10-20-1
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私にとっての大学(2)「学問の自由」観 [メモ]

久しぶりにここに来た。「移ろうままに 2」に〈真っ当な野党へ、 新・国民民主党(日本学術会議騒動)〉https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-07-2 の記事を書いたところ。騒動の中でしきりに言われる「学問の自由」の言葉に大学入学当時のことがよみがえってきた。ここに来てちょっと前の記事にさかのぼってみたら、7月1日の〈私にとっての大学〉https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-07-01の記事が(つづく)になっていた。ちょうど今書いてきた記事につながるように思えたので転載しておきます。

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「日本の学校は本当に必要か」(東洋経済) [メモ]

東洋経済 2.8.23.jpg「東洋経済」8月22日号”少数異見”「日本の学校は本当に必要か」。《学ぶことより規則に従うことを重視する日本の学校は、明治時代の「教育」の場にとどまっている。そんな学校が本当に必要なのだろうか。》

一方、mespesadoさんの紹介記事から、OECDによる48カ国・地域の小中学校段階の教員を対象に行った調査(2018)によると、「批判的に考える必要がある課題を与える」(客観的事実に基づいてゼロベースで論理的に考える力をつける)ように指導することを心がけている教員の割合は、アメリカは78.9%、カナダ(アルバータ)は76%、イギリス(イングランド)は67.5%、オーストラリアは69.5%、アジアではシンガポール54.1%、台湾48.8%、韓国44.8%。イデオロギー的に国民の体制批判に敏感な中国(上海)でさえ53.3%、ロシアも59.7%なっており、48カ国の平均でみると61%そして日本はというと、なんと日本だけが2.6%!47の国・地域が40〜87%の範囲におさまっている中で、驚くほどダントツの低さ。mesさんいわく、ものごとを根幹から考える」という勉強法は指導を受けた記憶もないし、そもそもそんな教育方法が存在すること自体知らされていません》


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天見玲さんの「時間と空間の共有」を読んで [メモ]

今朝の山形新聞気炎欄、天見玲さんの文章に感動。たまたま昨日、昔のものを押し込めてある物置部屋に入って小箱を見つけ開けてみたら、3年間の教師時代の教え子からの手紙がごっそり入っていた。こんなに手紙をもらっていたことはすっかり記憶から消えていた。小学校2年生31名を担任したのが11ヶ月、あとは岡山と福島の女子高だから、ほとんどすべて女性(女の子)から。あちこちだが読みつつ、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、手紙をもらっていたことをすっかり忘れてしまっていたことを申しわけなく思ったところだった。そして今朝の天見玲さん(錦啓先生)の文章。私もこみ上げるものがある。そして、ここで言われる「教育の本質」という問いかけの意味は大きい。

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総括されないままの「全共闘世代」 [メモ]

岸浩吉 2.7.8.jpg
今朝(2.7.8)の山形新聞に、山形大学で紛争を体験した同世代の方の投書が載りました。69年卒の73歳ですから一級上の方です。「ノンポリ」自認学生とのことですが、《大きな社会変革の到来を予感させる雰囲気があり、すさまじい熱気を感じた。》とあり、当時の山大の雰囲気が伝わりました。私が岡山大で感じていた雰囲気とはちがうようです。《三島の残した「生命尊重以上の価値」を考える時、なぜか今でも心が重くなる》というのはなぜなのか。総括されないままの「全共闘世代」を思いました。

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私にとっての「大学」(1) [メモ]

「移ろうままに2」に今アップしたmespesadoさん講義(85)「大学」はどうあるべきかの中に《mespesadoさんの立論に、思いっきり溜飲が下がりました。そして、50年前の自分の大学生活が、私にとっていかに恵まれていたかを思い起こしました。》と書いて、こっちにリンクしておきました。
中学校時代をふりかえると、50人のクラスで大学に進んだのは1割ぐらい、周りにも大学生なんて誰もいない。私も大学なんて考えていなくて、商業高に進んで染物屋を継ごうと思っていた。父親が出た工業の染色科でなく商業の方を思ったのは、金を稼ぐには「ものを売る」方がいいという感覚が、紙屋から嫁いだ母親から受け継いでいたせいか。祖父はひたすら「ものを作る」仕事で、父親もそこから出発したのだが、そろそろ高度成長期にさしかかっていて「どんどんものが売れる」時代になって、手作業的家内工業は時代遅れになりつつあり、おのずと子供ながらの目も商業に向いていたのだろう。それが「進学校」に向かうことになったのは、ある晩珍しく私の部屋に入ってきた父親から「大学に行け」と言われたことによる。父には5歳ぐらいで亡くなった兄がいて、父は次男坊として生まれた。根っからの次男坊気質、染屋なんかやらないで学校の先生か役場にでも勤めたほうが性に合っていたと思う。両親が結婚して間もなく、何かツテがあってか「横浜に行って教師になる」と母親に迫ったことがあったと聞いたことがある。母は「高岡家の後継ぎの嫁として嫁いだんだからそういうわけにはいかない」と押しとどめたらしい。母親はほんとうに商売向きで、舅姑にもよく馴染んでいた。結局商売に関して父親はずっと母親の後塵を拝する風だった。その父親の思いが私に「大学進学」を勧めることになったのだと思う。(つづく)

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