ドキュメンタリー映画「日本原ー牛と人の大地」 [メモ]
結局、おれ日和ってるんじゃあなかろうか、という気持。あの行動が挫折すると・・・。
しかし、生きながらの破滅から逃れようとする限り。
しかし、この代償を支払うことはできるのか!? さっき、青井のかすれたマイクの声が聞こえた。》青井のことを思い出して《「青井」の名も懐かしい。津山高出身の医学部生で同年、中途入寮だったが、2回生の時部屋が向かい同士だった。青井と相原の丁々発止の議論を舌を巻きながら傍で聞いていたことがある。大学とはこういう連中の居るところか、と。青井は「民学同」、相原は創価学会だった。青井は大学紛争の終息とともにドロップアウト、郷里に近い酪農家に婿入りしたと聞いたきり、頭も気持もいい男だった。》ほんとうにいい男だった。その後どんな人生を歩んでいるのだろうか、とずっと気になっていた。
「こころ旅」岡山編に応募 [メモ]
「こころ旅」https://www.nhk.or.jp/kokorotabi/schedule2022autumn.html
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ちょうど50年前の昭和47年(1972)の5月でした。大学紛争のおかげで6年間在籍して大学を卒業したものの、就職先も決まらず宙ぶらりんの日々のところに、住んでる下宿(間借り)に近い小学校から代用教員の話が飛び込んできました。2年生に急な転入生があって1学級増えることになったというのです。小学校教諭の資格はありませんが二つ返事で引き受けました。そのことはすぐ子ども達に伝わったとみえ、その日のうちに、道路に接した下宿の外ではにぎやかな声が飛び交いました。
それから翌年の3月まで、31名の子ども達を相手に過ごした1年間は、75年間生きてきた中でいちばん充実した1年間でした。思う存分自由な気持ちで子ども達と関わっていました。学校の南側にある小さな山に子ども達を連れ出して、「秋を探そう」とか言って勝手に遊ばせたりしたこともありました。全て自己流でまわりの先生の顰蹙を買っていた面もあったと思いますが、今思えば1年だけということで大目に見てもらっていたのかもしれません。贅沢な1年間でした。
その後高校教員を2年勤めた後、家に帰って家業の染物業を継いで今に至っています。2年生だった子ども達が卒業の時、「牧石小学校」と大きく染め抜いた手染めの鯉のぼりをつくって送り、喜ばれたのもいい思い出です。
当時私の母と同じ年齢ということで、残った給食を晩飯にとって置いていただいたり、よく面倒みていただいた養護の青木先生との手紙や電話での交流が、数年前からはじまりました。100歳近いのですがとてもお元気です。今でも息子のように思っていただいています。そんなことから50年前の記憶を思い起こすことが多くなり、岡山と聞いて「こころ旅」に応募したくなった次第です。
18歳から26歳まで8年間岡山で過ごしました。4年間の寮生活のあとは4年間玉柏で自炊暮らしでした。自転車で行き来した用水沿いの道、そういえば3学期の始業式の日、目が覚めたら8時過ぎ、その道を猛スピードで飛ばして学校に着くも大巾遅刻、それを優しく迎えてくれたのが職員室の青木先生の笑顔でした。幾分その笑顔にほっとしつつ、気まずげに整列の済んだ体育館に入っていった、そんな情景もよみがえってきました。
牧石小でのあの1年間が、その後の私の人生にどれだけ力になってくれたことかと今あらためて思わされています。
「若者の社会を良くしようと言う声の大きさは、国の未来の活力に繋がります。」(北原 俊史) [メモ]
「あの時抗っていれば…」と後悔しても後の祭り(長周新聞) [よびかけ]
全共闘世代はなぜダメなのか [よびかけ]
『激論ー全共闘 俺たちの原点』を読む [本]
《彼は間違いを犯したと思った瞬間に政治を棄てた。毅然として。しかし、有罪の身となって。彼はそれでも生きようとし、自閉した。》(『シチュアシオンⅣ』平井訳 p.203)
《えらばねばならぬ瞬間が来たとき、彼は自己に忠実でありつづけ、統一が見失われてしまった後にも生き残らぬように自沈してしまった。》(同上 p.214)
またサルトルはこうも言う。
《彼はニューヨークでエレベーターボーイになるというのだ。気の重くなる冗談だった。それは自殺の表現だったから。》(同上 p、201)