SSブログ

総括されないままの「全共闘世代」 [メモ]

岸浩吉 2.7.8.jpg
今朝(2.7.8)の山形新聞に、山形大学で紛争を体験した同世代の方の投書が載りました。69年卒の73歳ですから一級上の方です。「ノンポリ」自認学生とのことですが、《大きな社会変革の到来を予感させる雰囲気があり、すさまじい熱気を感じた。》とあり、当時の山大の雰囲気が伝わりました。私が岡山大で感じていた雰囲気とはちがうようです。《三島の残した「生命尊重以上の価値」を考える時、なぜか今でも心が重くなる》というのはなぜなのか。総括されないままの「全共闘世代」を思いました。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

私にとっての「大学」(1) [メモ]

「移ろうままに2」に今アップしたmespesadoさん講義(85)「大学」はどうあるべきかの中に《mespesadoさんの立論に、思いっきり溜飲が下がりました。そして、50年前の自分の大学生活が、私にとっていかに恵まれていたかを思い起こしました。》と書いて、こっちにリンクしておきました。
中学校時代をふりかえると、50人のクラスで大学に進んだのは1割ぐらい、周りにも大学生なんて誰もいない。私も大学なんて考えていなくて、商業高に進んで染物屋を継ごうと思っていた。父親が出た工業の染色科でなく商業の方を思ったのは、金を稼ぐには「ものを売る」方がいいという感覚が、紙屋から嫁いだ母親から受け継いでいたせいか。祖父はひたすら「ものを作る」仕事で、父親もそこから出発したのだが、そろそろ高度成長期にさしかかっていて「どんどんものが売れる」時代になって、手作業的家内工業は時代遅れになりつつあり、おのずと子供ながらの目も商業に向いていたのだろう。それが「進学校」に向かうことになったのは、ある晩珍しく私の部屋に入ってきた父親から「大学に行け」と言われたことによる。父には5歳ぐらいで亡くなった兄がいて、父は次男坊として生まれた。根っからの次男坊気質、染屋なんかやらないで学校の先生か役場にでも勤めたほうが性に合っていたと思う。両親が結婚して間もなく、何かツテがあってか「横浜に行って教師になる」と母親に迫ったことがあったと聞いたことがある。母は「高岡家の後継ぎの嫁として嫁いだんだからそういうわけにはいかない」と押しとどめたらしい。母親はほんとうに商売向きで、舅姑にもよく馴染んでいた。結局商売に関して父親はずっと母親の後塵を拝する風だった。その父親の思いが私に「大学進学」を勧めることになったのだと思う。(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

斎藤喜博先生のこと [メモ]

今見た「チコちゃん叱られる!」で斎藤喜博先生が紹介された。卒業式の「よびかけ」の始まりは、斎藤校長の島小学校だった。たしかに、そういえば・・と思い出した。当時の在校生、卒業生、100歳になる保護者だったおばあちゃんも出て感動的な構成だった。

一緒に見ていた家族に「この先生の講義を聴いたことがある! ばばちゃ(祖母)が脳卒中で危篤になり、一旦帰ったが、斎藤先生の集中講義が聴きたくて岡山に戻り、ばばちゃの死に目に会えなかった。」と話した。「すごい存在感で、催眠術にかかったようにして講義に集中させられた。」とも。「記録」を探したら、そのときのことが記してあった。昭和46年11月22日だった。祖母は翌23日に亡くなっている。

林(智)に薦められて受けた宮坂義彦先生の「授業論」で斎藤先生を知った。3年間の教員時代、まさに私にとっての「カリスマ先生」だった。牧石小に勤めていた昭和47年には、斎藤理論を実践する神戸の御影小学校にも行ったことがある。女子寮で委員会でも一緒だった1級後輩の坂東さんが勤務していて羨ましく思ったものだった。『斎藤喜博全集』も買った。教員生活の最後となった福島緑ヶ丘高校に何冊か置いてきたが、半分ぐらいは埃をかぶってあるはずだ。レコード集『風と川とこどものうた』も持っていたが、小学校の先生を務める眞賀さん(旧姓安藤/牧石小のの教え子)が数年前ここに来てくれた時にあげた。一回生の時に今西錦司先生、6回生の時に斎藤喜博先生、このお二人の講義を聴けたことは、私にとって大学時代の大きな財産である。

斎藤先生については林(智)関連でここにも書いていた。→https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2020-01-03

*   *   *   *   *

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。