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1969.1.26〜1.30 [当時の「記録」]

当時の気持ち、まだうまくつかめたとは言い難い。書いた本人がそうなのだから、他人には何がなんだかわからないと思う。ただ、当時誰かに読んでもらおうとは一切思わず、その時々思うまま書きたいままに書き連ねた。スト権確立の動きに惹かれつつ、それとは一線を画そうとする、その踏ん張りが何に由来するのか。漠然とした「いかがわしさ」を感じていたのもたしかなことだ。

*   *   *   *   *

昭和44年
1/26 AM1:40
今日からストとの事。教養封鎖をしているそうだ。
厳しさと冷静さを以って。
あくまで、おれ自身の行動を。おれ自身を賭けるのだ。あくまで真のおれでなければならぬ。

1/27 PM10:30
いろいろの問題が身に迫ったものとして感じられる今日この頃。
おれは”動揺”を選ぼうとしている。いちばん苦しい立場ともいえるし、いちばん楽な立場ともいえる。そしていちばん苦しい立場にするべく自らに課してこそ”動揺”を選ぶことの価値があるのだ。可能か!?(苦しくもあり楽でもあるというのが正直のところ?)
八方美人ではなく孤独を。現代にあって真の自立とはそういうものなのだ。
個人次元の道徳と社会次元の道徳。
ファシズムへの道、民主主義の否定。今のおれの論理をつきつめるならば、そこに辿りつかざるを得ない。それでいいのだろうか。
あるいは実質一辺倒主義の破綻。形式と実質との絡まりあい。
日常性の否定、ということの限界性。
もう、おれたちは駄目なんじゃないのか。この状況に満足していくより他・・・という気持。

おれが腹を立てる対象、それはおれに向けられた怒りだけ。そういう自分、それでいいのか。
おれはいちばん狡い方法を選んでいるのかもしれぬ、という危惧。
動揺とは、絶えざる自己否定。
しかし、果して、それはどこまで本物?という疑問。
ともすれば、八方美人になりがちな、動揺。
要するに、この動揺の中から何を抽き出すかだ。

現代が根本的に問われている。しかし、実際、問うことは可能なのか。問うことなんて不可能なのが、あるいは”現代”なのかもしれぬのに。
いかにすれば根底的な問いは可能なのか。具体的には、安藤、近藤、藤中の三教官の現在の立場を否定することが如何にして可能なのか。それが不可能なら、この問いかけは今のおれにとっては、ナンセンスなのだ。
立場の否定。自分の立っている足元を自分で切り崩すこと。それは今のおれにとって何なのか。あるいは、自分の立場の何もないともいってもいい学生にとって、それはたいして意味のない、何の痛みもないことなのかもしれない。
しかし、それが痛み、結局、それによって一切の自己否定となる人にとって、それはとんでもないことなのだ。
おれの自己否定、という時の甘さとは全く異なる。それは、今のおれには、到底理解し得ないものなのかもしれない。
学生は、それを到底理解しえない。にもかかわらず、おれたちはやらねばならないのか。
自分をあくまで理念の立場におこうとするならば、それと現実とのギャップを”痛み”として、自分の内面におかねばならぬ。そういう時代なのだ。
しかし、ここに、こうして書くことと、その実際のたよりなさ。自己満足?

1/29 PM7:30
今日、文科の学生大会。
賛成133 反対44 保留26 無効1 でスト決議。
おれは心情的には賛成にしたかったが、初志貫徹で保留。まだ今の段階では動揺しかない。もう少し、という面もあるが。
今のおれが学生の立場に徹していいのか。心情に任せてしまっていいのか。投票用紙を前にしてまで迷う。
圧倒的多数でスト賛成になったからよかった様なものの。
あらゆる動揺を身に受けるのだ。何かが出てくる筈だ。
吉本の”自立”、”関係の絶対性”について考える。
民青に対するいらだたしさ。石川さんに欺されていたという気持ち。ゲバ棒の気持もよくわかる。どうしようもない、という感じ。
どれだけ自分を苦しい事態に追い込みうるか、を。逃げるな。そしてかつ自分に誠実に。
今、体育館では、ぎっしり埋めて大衆団交中。   冷静に!!  気負いなく。

1/30 AM1:00
団交、11時頃おわる。五項目中二項目まで話しあい、大学側全面的に呑む。今日限りでは、学生側の圧倒的勝利。
この事をおれなりにどの様に考えればよいか。
あらゆる幻想をふり払った地点に立ってみること。たとえば”体制”とか”法”とかの。
そして自立!!
そしておれは何をやるのかを!!

現在の状況は、学生にとって万々歳の状況である。おれも万々歳をしたい。しかし、してはならぬ。おれの思想的課題を、この状況と、現在のおれとの関わりの中から見出し、自分の思想を確立してゆかねばならぬのだ。万々歳をしたくてもできぬ気持を、おれ自身の中にいかに自己のものとしてとり込むか。
”生活”とはなんなのか。吉本のいう”生活過程”とは何なのか。そして”生きる”とは何なのか。
それを解き得ぬうちは、おれ自身の判断は停止の地点に停めおかねばならないのかもしれぬ。
いや、”自立”と”関係の絶対性”によって救いうるかもしれぬ。
どうもまとまらぬ。ふとんに入って、ねながら考えるだけ考えよう。

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