今朝(1/26)のサンデーモーニングで寺島実郎氏(1947生 私と同年生)が「1968年ごろ、フランスから始まった世界的な動きがあった。自分もその世代だが、全共闘世代ともいわれ、大学を中心にそれまでの権威に対して反抗する動きだった。当時はわからなかったが、その時の動きがその後いろんなあたらしいものを生み出すことになった」というような意味のことを語っていた。昨年、そうした寺島氏と同様な認識を純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落』で知った。(『純粋機械化経済』を読むhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-09-26私たちはなすベきことではなく、したいことをするようになる。仕事をしたいから仕事をする、勉強したいから勉強する、遊びたいから遊ぶ。1968年、当時の学生たちは、「~すべし」と命令する父権的な強迫観念から解き放たれたかったのではないだろうか。》(475p)一男と竹田の議論から、当時のわれわれ学生から見えていた「世の中」をうかがい知ることができるが、それに適応できない洩れたところから新しい時代が開かれることになる。先の記事にこう書いた。

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「1968年革命」の精神は、「創造的破壊」ということで「カリフォルニアン・イデオロギー」へと通じてゆく。一時は「ヒッピー」に象徴される「カリフォルニアン・イデオロギー」の中から、マッキントッシュやウィンドウズやアイフォンが生まれ出る。《「21世紀を発明した人々が、スティーブのように、サンダル履きでマリファナを吸う西海岸のヒッピーだったのは、彼らが世間と違う見方をする人々だからだ。東海岸や英国、ドイツ、日本などのように階級を重んじる社会では、他人と違う見方をするのは難しい。まだ存在しない世界を思い描くには、60年代に生まれた無政府的な考え方が最高だったのだーーーボノ」》(435p)

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それにしても、一男役の二宮と竹田役の森本、長いセリフをよく覚えてくれたもんだと今更ながら思ったが、劇の設定自体われわれの共通感覚そのものだったから、さほどの苦労はなかったのかもしれない。台本だって大まかなあらすじはあったが、書き始めてからはそう頭をひねることもなく、一気に書きあがったものだった。

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