ここで吉本が展開する『反核異論』に対する批判への反批判。俎上に上がったのは、宮内豊・土井淑平・田川建三の3人。吉本は言う、《三者に共通しているところがあるんですよ。それはなにかっていうとね、ひとつは、要するに、これが一種の「怪文書」だっていうことなんですよ。つまりこの人たちはどういう思想をもっているかっていうと、それぞれ神学思想から、左翼思想から、エコロジストまではいっているわけだから、それぞれ思想は違うんだけど、共通していることは、このひとたちは大多数の一般大衆っていうか市民社会っていいましょうか、それがどうであれ、不満であれ、不満でなけれ、市民社会の大多数を占めている、その「一般大衆」っていうものの考えている事柄っていうのを繰り込むっていう考えかたが全くないっていうこと。だから、この本は一見すると、なんかラディカルなようにみえているけれども、これはようするに「怪文書」だと。一冊の本の体裁をもって、商業出版から出て、店頭で売られていますけれども、これは「怪文書」だっていうことだと思うんです。つまり、こんなものは通用しないっていうことが、ひとつ、あるんですよ。「怪文書」として共通している。「怪文書」がこういう本の体裁をして、単行本の体裁をして出てくるっていうのは、もう末期的症状だっていうふうに、ぼくにはまず、思われます。つまり、サヨクの末期的症状だと思っています。だから、こいつはひとつ、「やっとこうじゃないか」と。その「怪文書」たる所以も言っとこうじゃないかっていう。もっといろんなことが、付随したいろんなことがあるんですけれども、それはこの二、三冊の怪文書に象徴させることができる。/ この人たちは、要するに、大衆の心ってのを本質では分かっていない。大衆が構成している社会がどうであれ、また大衆がどう思っていようと、現在の資本主義社会、高度資本システムをどう思っていようと、その大衆の心っていうのを自分の理論の中に繰り込むことができていない。「大衆はこうであるに違いない」という先験的、先天的な理念っていうものがあるんですけれども、しかし、そうではなくて、「現にどう思っているか」っていうことを繰り込めていないから、どんなに本を作っても「怪文書」だっていうふうになってしまっていると、ぼくはそう判断します。そうすると「怪文書」に類するものに、いちいち応答したってしょうがないって、どうとか、やり過ごしてきましたけど。こういう「24時間も時間があるんだからな」と思って、どっかでこれをやっても、時間のあれにはなるなって考えて、やろうと思ってきたんです。》(音声→https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a105.html) 中富はまさに《サヨクの末期的症状》の象徴という意味で、吉本が批判する宮内豊・土井淑平・田川建三とつながる。以下の吉本の三者への批判は、そのまま中富への批判になっている。《このひとたちが抱いている理想社会の像っていうもの、イメージっていうのを見るとわかります。三者三様、違うように思いますけれども、ニュアンスが違いますけれども、共通していることは退行することです。すでに大都市が出現して、大都市が膨張・収縮を繰り返しているっていう段階において、このひとたちが理想としているエコロジー社会とか、理念社会っていうのは、争いのない社会っていうのは…。/ 宮内豊は、ようするに「東洋的な自然認識」っていうのをここに入れたら、なんか、非常に和やかな社会が出現する、高度資本主義のガサガサ、ムスムスしている、そういうあれを脱却できるんじゃないかっていうのが、宮内豊の反核の理念であり、究極理念であり、ぼくのために(ありがたくも、ばかばかしくも)一冊の本を書いてくれた、そういう根底のモチーフっていうのは、それなんです。/ それから、土井淑平ってひとの理想社会っていうのも、見てみればわかりますけれども、これは一種の…。やっぱりおんなじですよ。それがもう、いっぺんに正体がわかっちゃうんですよ。どんなに偉そうなことを言ってもいっぺんにわかっちゃう。こんなことを実現することは、できるはずがないですよ。/この人も一種の、「小都市で」「農村と自然と調和がとれて」「調和がとれる生産と」「差別がない社会を」「調和がとれる都市と科学と生態系と」、そういうので、そういう社会が理想だって、そうふうに書いてあります、あの本のなかに。それを見れば、いっぺんにこの人の構想が分かるわけです。しかし、よく考えてごらんなさい。たとえば日本の現状で(ぼくは都市論を今日、展開しましたけれども)、それでもってわかるように、土井淑平が言っているわけですよ、そういうバカを(違うひとが言っているのを引用しているわけですけどね)。そういうエコロジー社会っていうものを実現するっていうことは、「必然的に政治革命っていうのを生起する」っていうふうに、外国の、その手のひとが書いているのを引用して言っているわけですよ。/ しかし、冗談でないわけです。たとえば、東京の、この現在の大都市、これを土井淑平が理想社会とするような都市と農村のすがたにするためには…。全部のことを言う必要はないです、だいたいビルディングだけでいいわけです。土井淑平のいうようにするためには、ビル街っていうのを破壊しなければならないですよ、誰が破壊するわけですか。破壊しなければならないですよ。破壊するわけがないでしょうが、この大都市になってしまったものを。破壊するわけがないし、破壊するのは、「反日アジアなんとか武力戦線」とか知らんけど、それだけだよ、破壊しようっていうのは。/ その破壊しようっていう場合に何が問題かっていうと、破壊したけりゃすればいいけれどさ、関係ねえんだから。住処に関係ないからいいけれども、破壊したときに一般大衆っていうのがなくなるわけですよ。急激に破壊すれば、なくなっちゃうわけですよ。そうすると、この考え方ってのは、要するに、ポル・ポトとおんなじよ。つまり「民衆の解放のための理念」っていうのを強力に実現しようとしていくと、民衆を殺していかなきゃなんないんですよ、一般大衆ってものを。これはもう、ぼくに言わせると「理念の倒錯」も同じ、最大のもんですよ。これはしかし、土井淑平の言う通りな理想社会って、どう考えたって、この大都市になってしまったものを、全部壊さなきゃなんないでしょ。ビルかなんか壊していかなきゃなんないでしょ。それ、誰がするわけですか、誰が権力を握って、誰がそういうバカなことをするわけですか。そんなことは成り立ちようがないですよ。ぼくはそれを言っている。ぜんぶね、退行社会ですよ。退行社会ができるみたいなことを言っているわけですよ。そんなバカなことはないわけでね。これはもう、一事が万事、すぐわかりますよ。/ これはね、田川建三でもおんなじですよ。おんなじです、退行。ぼくに言わせれば「退行社会が理想のイメージとしてある」っていう、そういうことなんです。紙で書いているうちはいいけどさ、本当に壊さなきゃならないですよ、こういうビルを全部壊してあるかなきゃ。爆破してあるかなきゃ、そういうふうにならないんだから。それを誰がするんですか?誰がそれをするわけですか?で、したときに、民衆はどうするわけですか、一般大衆はどうするわけ?そういうことに対してプログラムが無いわけでしょう。それでいて、そういうことを言う。/「それこそが現在の世界の最大のこれからの課題なんだ」ていうのが、土井淑平の論理なんです。こんなバカな論理っていうのに、まともに付き合えるわけが…。》(音声→https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a105.html) たしかにあの時代、私の周りには中富的感覚はごく普通にあったのだ。昨夜のドラマで、われわれの時代も、遠い昔の「歴史的遺物」になっていることを思わされた。